ゆるふわふじげたんカフェブログ

藤本亮太郎。英語指導して生きています。仕事、プライベート、英語のことについて日頃思ったことを綴っていきます。投稿内容の責任は僕個人に帰属します。インスタはこちら。@koshinkokunihon

結果非公開主義

受験シーズンが佳境を迎え、僕の生徒たちもぽつぽつと最後の授業を終えていく。私大受験は連日続いており、このあとに高校受験は都立、大学受験は国立が控える。後期もあることを考えるとシーズンはまだまだ序盤とも言えるのだろうが、すでに結果を報告してくれる生徒も出ている。第1志望への進学を決めた生徒もいれば、悔しい思いをした生徒もいる。緊張やもどかしさも抱えながら、生徒と喜怒哀楽をともにできるこの時期は案外好きかもしれない。人間、そう誰とでも純粋な感情を分かち合うことはできないので。

 

結果を聞くにつけ、自分が追い求めているのは特定の学校の「合格」という2文字だけなのかという問題に突き当たる。

 

実はこのところ、思うところがあって他の教育サービスを熱心に調べている。各サービスのホームページなどを眺めて改めて思うのだが、多くの教育サービスが掲げる実績には明らかにランクがあるようだ。偏差値が高ければ高いほど、実績は特大のボールド体で華々しく描かれ、輝かしく映るように入念に細工される。そして数字が下がるのに比例して、文字も小さくなっていく。本来なら主張しているべき「合格」の2文字も、周りに散りばめられる桜に隠れているようにも見える。

 

偏差値を物差しに結果にランク付けを施すのも無理はない。なぜなら教育も所詮は市場で行われているものであり、まさに結果の如何が新たな顧客を生み出す決定要因になるのだから。世間的に魅力的な名前を選別的に前面に出すのも致し方がないことだと思う。

 

しかし、こうした態度は自分が求めているものとは違うように感じる。どんな結果であれ、それはその本人にとって最もかけがえのないものであるはずだ。合格の喜び、不合格の悔しさ、いずれにしてもそれらは彼らの人生をより豊かにするものでなければならない。合格だけを掻き集めてランク付けし、それを商売道具に変えてしまうのは彼らに対して不誠実である気がする。それは彼らの積み重ねた努力に対して極めて失礼だ。

 

伴走者である自分に許されるのは、彼らと結果を情的に共有できるという特権を得るだけだ。それによって自分の価値に結びつけるような傲慢には与したくない。どのような結果になろうとも、それを受け止めて次に繋げられる。それは結果というものに対する指導者の見方が大きく影響するものだと思う。

 

結果に対して当人がどのような意味付けをし、どのように吸収して人生の糧にしていくかが大切だ。それを実現するためには、教育の方からこそ、数字や合否への固着から決別すべきかもしれない。

 

そういうことを考えて、僕はいまたくさん受け取っている結果を外側に対して公開しないことに決めた。それはくだらないことだ。自分の生徒にとっての意味付けができればいいから、内部のみで消化しようと思う。

 

※組織の事情で結果が掲載されることがあっても、僕自身はこの立場を変えない。