久しぶりにブログを更新する。タイトルは意図的なものだ。幼稚な性分なので。しかし時期も時期だし良い機会なので今年一年を自分なりに振り返りながら、自分が得た結果についてキーボードを叩いてみようと思う。
(このエントリは、昨日自分の仕事に関して投稿したXのpostの覚書でもある。先に断っておくが長い。)
今年は本当に仕事をした。うまい具合に次から次へと仕事をいただき、途切れることなく本当にずっと頭と身体を動かしていた。いろいろな経験をしたいというのもあったが、正直お金がどうしても必要だという事情があって入ってくるものは全て受けた。特に4月ごろから10月の半ばごろまでだろうか、睡眠時間もろくに取らずに朝から深夜まで働きづめという期間があり、最初はなんとかまあもったはもったのだがそのうちもう身体が動かないということになり、方々にご迷惑までお掛けした。おそらくその影響で10月おわりに仕事がやっとひと段落しだした頃合いに、身体もずいぶんとほっとしたのか、立て続けに2回も高熱をやった。疲れたところに気が緩んでのことだと思う。これまたお客さんとお仕事先に迷惑をかけた。結局身体がいちばんの資本だ。そういう言葉は今まで何度も聞いてきたが、元気だから大丈夫だと話半分だった。今年はこれを身に沁みて知った。
仕事に精を出したぶん学びも多かった。1月の終わりにメインで勤めている個別塾の本丸が破産したのは大変だった。身を置いている教室は別運営ではあったけれども、正直怖いところもあった。しかし危機を境に運営状況を自分なりに見直し、システマタイズされていない部分をしっかりと固めることができた。もちろん自分一人だけが仕事をしたというわけではない。昨年からお世話になっているオーナーには曖昧だった報酬体系を見直していただき、安心して仕事ができるようになった。また、当時もう一人在籍していらっしゃった講師の方とも協力しあい、生徒さんの管理体系の雛形も出来上がった。
雇われの身ながら現場ではワンオペの指導体制で、実質の教室運営は僕自身というふうになっている。だから指導の上では誰かが決めた方針など気にする必要もなく、のびのびと指導ができる。これは本当にありがたい。僕は非常に頑固なところがあり、自分のポリシーに反することを押し付けられることにとてつもないストレスを感じてしまう。ストレスを感じるだけならまだいい。社会性がないからいけない。自分が違うと思ったら絶対に違うと信じ込み、反抗し、衝動的に組織をやめてすぐ無職になってしまう。本当に良くない。(良くないがこれを繰り返している。)しかしそういう意味では半ば放任の今の状況は心地よい。自分の信念をそのまま仕事に変換できるのだから。
自分の理想を試してみては生徒の反応を見て修正を繰り返す。実践があるからこそ理想はますます洗練され、最も凝縮された形で理論化される。頭の中にばらばらと散らかっていた経験知が次々つながっていき、理論知として綺麗に整理されたように思う。すると本当に面白いもので、今まで全然見えていなかったことがぱっと意味を持ったものとして目に入りこんでくる。生徒の持つ鉛筆が止まったその瞬間が、何かを決定的に伝えるサインとして現れる。生徒の発したせりふの微妙な言葉遣いが、彼らの脳内を伝える重要な手がかりとして僕を揺さぶる。指導空間で彼らが見せるすべての言葉、ふるまいがすべて指導のヒントに思えるのだ。そしてそういうヒントをつないでいった先に、目の前の生徒に何をどのタイミングでどのように指導すればいつの時点で何が実現できるかが見えることがある。朧げなこともあるが、はっきりと見えることもある。この研ぎ澄まされた感覚は今年になってはじめて得た。以前に勤めていた個別塾で上司にあたる方から「指導でいちばん大切なのは察知力だ」という言葉をいただいたことがある。この言葉の重要性が今、強力な実感を持ってわかる。
集団指導のほうを思い返すと、強みの英検の経験を活かしてコースのオーガナイズを担当させていただくという素敵な機会をいただいた。どこの塾予備校でもやっているような板書指導とは全く違う、本当に英語を伸ばせる方法を四六時中考えた。深夜の仕事帰りに最寄り駅まで帰らずに、わざわざ手前の北千住で降りて家まで30分テクテク歩きながらずっとずっと、永遠に考えていた。これも自分の中の理想がきゅっと締まっていき、具体的な形を帯びていく重要な経験だった。こういう経験を与えてくれる職場には感謝しないといけない。自分のプロフェッショナリズムの原型が固まるような素晴らしい一年だったと言える。
結果できた指導システムは自分の理想が詰まった本当に素晴らしいものだと自負している。嬉しいことに生徒さん、そしてその保護者の方からの評判も良いようだ。しかしシステムを作るにあたってひとつ難しい障壁にも直面した。再現性の問題だ。僕がつくったものだから、当然僕のやり方に最もアジャストされている。僕がやるのがいちばん効果が高い。実績も出るに違いない。しかしこれではいけない。これではシステムと呼べない。あるスキル水準を達成した者なら誰でも安定して実現できなければいけない。要するに、属人性をできる限り排除しなくてはならない。
この点に関しては今も正直悩んでいるところがある。人間が行うものである以上、その人間の知識や経験のみならず、思考回路、行動習慣、生い立ち、思想すべてがその人間ベースで行われることになる。行う内容や手順に関してレールを敷いたところで、その解釈に齟齬があれば、同じことを同じようにやってみても実のところそれは「ふり」に過ぎず、単にプロセスをなぞっただけでせっかくシステム化したものの良さ、あるいは意図というべきか、それがまったく反映されないことになる。こういう悩みを経て自分なりに行き着いた答えは次のようなものだ。
(以下、一通り書いてみたが自分のためのメモに過ぎず大変読みにくいので、読み飛ばしてもらっていい。)
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指導システムを創る上で重要なのは以下の要素である。
1. Objectives
2. People
3. Steps
上記がこの順に大切になると思う。ひとつひとつ僕の頭の中にあることを整理する。
1. Objectives
最重要なのがObjectives(目的)だ。その指導システムが何を目指すのか。ここが根源となってMotivation(目的意識)が生まれる。指導員の目的意識が学び手の目的意識へと連鎖する。
目的は一つではない。システムに組み込まれるすべての学習行為それぞれに、それを支持する目的がなければならない。たとえば音読を組み込むのであれば、それがどのような目的のもと組み込まれているか、ダイレクトに紐づいていなければならない。
目的意識は指導員と学び手でオーバーラップはするものの、完全に同一であってはならない。指導員は常にひとつ次元を超え、俯瞰的に先まで見えている必要がある。つまり、指導員の目的意識と学習者の目的意識は、前者が後者を包含するような関係にある。これが実現していれば指導の質は高める。システム化の上では、この両者の目的意識まで広げて考えなければならない。
2. People
目的を達成する手段はシステムの中にある個々のステップではない。あらゆるステップは指導員を通して実現する。従って、指導に関わる人間の方が、実行される指導ステップよりも上位にあるべきだ。
目的に裏付けられた各々の学習行為は盲目的に行われるものではなく、指導員の知識体系や経験というレンズを通し、最適化された状態で行われるのが理想だ。「この絵を寸分違わず模写してください」ではなく、「この絵をあなたのパレットとあなたの想像力で最も美しくアレンジしてください」というふうになれば良い。ただし、絵がまるで原型を留めないのは良くない。だからこそ指導で行われる学習行為には強固な目的を結びつけ、それによって予め錨を下ろしておかねばならない。
3. Steps
システムがシステムたる所以は、何をいつどのように行うかがテーブル化されていることにある。Steps(手順)は5W1Hを明らかにした具体的な形で、緻密に組む必要がある。しかし、それが度を越してしまうと手順を踏むことそのものに目的意識がすり替わってしまう恐れがあり、そうなるとシステムそのものが瓦解していることになる。
Stepsは緻密な形で提示はされるべきだが、同時に柔軟でなければならない。指導員の裁量がきくものでなければならない。現場の状況によって取捨選択が行われなければならない。あくまで目的ベースであり、ゆとりがあるべきだ。
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ここまで、読者がいることを忘れ、読まれることを無視して書いてしまった。これは自分が今後参考にするメモとでもしておこう。とまれ、こうしてキーボードを叩く指を止めることなく頭にあることがパチパチ言語化されていくのは、それ自体がこの1年の仕事の密具合、充実さを表しているように思う。
こうして振り返るとずいぶんと仕事を頑張ったものだなと思う。昨日Xでまだまだ尻の青い小坊主に「結果を出すことに(自分ほど)こだわっていない」との評価を下された気がしているのだが、まあたしかに「結果を出す」ということには執着していないのかもしれない。しかしそれは、教育における「結果」の意味するところが件の小坊主のような数値(ゲームの順位?とかフォロワーの数?とか)とは根本的に違うからだろう。教育を真剣にされている方ならば分かっていただけるんじゃないかと思う。
中高生指導に限定して思うところを書くが、子どもたちに本当に豊かさを与えるのはテストのスコア、偏差値等々の数字などではない。断じてない。「合格」の2文字でも決してない。そんなものは教育においては建前に過ぎないのだ。申し訳ないが、建前を本気にしている人間は指導職に向いていない。万が一、もし万が一、恥ずかしげもなく「結果がすべて」と数字やら合格やらを誇らしげに挙げる人間が教育で商売をしているとすれば、その人間は即刻看板を下げるべきだろう。
月並みだが、大切なのは数字や合格を得るまでのプロセスだ。いや、数字など得なくてもいい。見栄えの良い「結果」など得なくても、子どもたちがそこに至るまでのもがきの中で何を経験するか、何を感じるか、何を学びとるか、教育の本音の部分はそこにある。
ちょうど数日前、個別塾の方で2年前に指導していた生徒さんから連絡があった。進路も決まって今は大学生の生徒さんだが、実は現役の大学受験で「結果」を得られなかった。うまく導けなかったことは自分の責任もある。推し量ることしかできないが、その生徒さん自身も悔しい思いをしているに違いない。その生徒さんが、今年現役で届かなかった大学・学部を受けることになったと、だからそれまで指導をしてほしいと連絡をくれた。英語の成績も送ってくれた。現役時とは比べものにならないくらい上がっている。勉強したに違いない。卒塾してからの2年間、得られなかった「結果」を前にして、自らを推し進めた姿に感動した。
「合格」なんかよりもよっぽど素敵な結果がそこにある。そういう生徒さんに会えて、そのサポートができたことにこの上ない喜びを感じる。同時に、そういう人間教育を含めた指導を僕はしたいと思う。数字や合格はたしかに大切だ。それは子どもたちにとっては人生のすべてであるかのように見える。しかし、指導者がそれを子どもたちと同じ目線で追ってはいけない。僕たち現場の指導者にとっては、そういったものはひとつの達成目標に過ぎないのだ。それを達成するために何を行なったか、教科知識に限らずもっともっと幅広く何を語りかけたか、どう背中を押したか、勇気づけたか、何を見せたか、そちらの方がよっぽど大切なのだ。駿台予備校の故・表三郎師の晩年の授業はほとんど雑談ばかりだったという。僕は師の思いが分かる気がする。
ああ、むきになってブログなど書いていたらもうこんな時間だ。クリスマスに変わる瞬間をマックで過ごすことになる。今年も変わらないなあ。しかし、これでいいんだ。こうやって教育に夢中になるあまり、時間を忘れて1時間も2時間もキーボードを叩く、そんな聖夜も悪くない。尻の青い小坊主は自分に矢印が向いていることだろうから、こんな掃き溜めのブログには興味もないだろう。ブロックされているからクリックもしないに違いない。もっとも、何かの間違いでこのページに辿り着いてもここまで5,000字も読めるかどうかはわからないが。
さあ、帰ってご飯を作って明日の準備をしよう。28日くらいまで年末最後の大忙しシーズン。納めたら年末年始は実家に帰省する予定。
ほいじゃあの。