ゆるふわふじげたんカフェブログ

藤本亮太郎。英語指導して生きています。現在は渋谷英語塾(旧吉田塾渋谷校)に所属。仕事、プライベート、英語のことについて日頃思ったことを綴っていきます。投稿内容の責任は僕個人に帰属します。

【渋谷英語塾(旧吉田塾渋谷校)】体験にお越しの方へ①(Q&A)

渋谷英語塾(旧吉田塾渋谷校)での指導が気になっていらっしゃる方に向けた投稿です。

以下、よくある質問をもとにQ&A式に基本情報を記載します。

 

Q.1 授業時間は何分ですか?
1コマ90分で、月4回の実施としています。

Q.2 授業日・時間は固定ですか?
曜日・時間を固定して通常授業日とします。授業コマは正時(X時00分)または半(X時30分)開始としています。

Q.3 振替はできますか? 振替回数の制限はありますか?
前日までに振替希望をお知らせいただければ、授業日の前後1ヶ月程度の期間でお振替が可能です。当日欠席は振替対象としておりませんが、ご病気等やむを得ない事情の場合はお振替をいたします。振替回数の制限はありません。

Q.4 日曜も教室は開室していますか?
日曜は教室を開けておりません。2026年5月現在、水曜と日曜はお休みをいただいております。また、第5週目にあたる毎月29日・30日・31日も教室を閉じております。

Q.5 1対多は大体どれくらいの人数になりますか?
最大で同じ時間に3人までを目安にしています。ただし、振替等で一時的に4人になることもあります

Q.6 どの学年が多いですか?
2026年5月現在、中学生と高校生の比率が大体1対3程度で、高校生の方が多いです。小学生と既卒生も若干名在籍しています。

Q.7 どのような目的の生徒さんが多いですか?
中学準備から大学受験までさまざまですが、学校補習と英検対策の生徒さんが多いです。特に中学生は、ハイレベル英語専門塾に入ったもののついていけなくなってしまったという事情の方が多くいらっしゃいます。また、高校生は、大学受験のために早い段階で英検をとっておきたいという方が多いです。

Q.8 課題・宿題は出ますか?
出します。ただし、最初は「15〜30秒程度の音読を毎日」など負荷の少ないものに限定し、徐々に負荷を上げていきます。学習の目的に応じて、訳読や英検学習、単語暗記など個別に異なる課題を追加していきます。

Q.9 どのように授業を進めますか?
一人の生徒さんに90分つきっきりという状況は避けており、必ず自ら一人で英語に取り組む時間を設けております。生徒さんが学習に取り組むなか、様子を見ながら一人一人に介入し、課題発見のサポート、明示的な知識の授受、定着のためのトレーニングを行っております。板書指導だけでなく、学習方法の提案と修正、および音声を使った定着トレーニングも重点的に行っております。教室での学習の延長に家庭学習があると捉え、教室で行ったことをそのまま家庭でも行うことができるように学習を組み立てます。

Q.10 教材は何を使いますか?
個別指導ですので教材の指定は特にありません。まずは学校の教科書を使って学習行為に慣れるステージを設定することが多いです。また、学習に慣れてきた段階で、英検過去問などを使って負荷をかけていきます。目的に応じて市販教材を使ったり、私の独自教材を使ったり、生徒さんによってさまざまなアプローチで目標達成を目指します。

Q.11 教室の自習室利用はできますか?
可能です。ただし、教室の定員数が限られているため、残席があるかどうか事前に確認していただいております。

Q.12 講師は変わりますか?
私藤本が通年指導を担当いたします。日によって講師が変わることなどはありません。

Q.13 オンラインでの受講はできますか?
指導の効果が限定的に留まり、十分な結果をお約束できないため、オンラインでのご受講は承っておりません。

Q.14 大学生・社会人の指導は受け付けていますか?
指導形態の関係上、大学生・社会人の方のご指導は現在受け付けておりません。

Q.15 料金体系はどのようになりますか?
下記の通りになります。
①入塾金:22,000円(税込)/ご家庭あたり一回限り
②中学生指導料:22,000円(税込)/月
③高校生指導料:26,400円(税込)/月
④諸経費:1,100円(税込)/月
①は入塾時にご家庭あたり一回限り申し受けております。ご兄弟姉妹のご入塾時や復塾時には申し受けません。
②または③に④を合算して月々のご料金となります。

その他、指導やシステムに関しましてご質問がございましたら、公式HP記載のメールアドレスまたは公式LINEよりお問い合わせください。

仕事と体力、これからのこと

2月の頭に34になった。誕生日の日は大変で、また身体を崩していた。鼻と喉をやり、少しだけ熱を出していた。そこまでひどくはなかったから仕事はしたけれども、やはりしんどかった。

 

この1年間は随分と体調に問題があった。疲れが来るのが極端に早くなったのを感じる。無理をするとすぐ眠気に見舞われ、思考力もなくなるのがわかった。エネルギーが無限にあった時分はもう過ぎつつあるようだ。

 

体力の限界を感じる中で、自分の限られたリソースをどう適切に配分するべきかを考える。この身ひとつで生きるのがフリーランスだ。あちこちにエネルギーを向けていると、それだけで限られた体力を消耗してしまう。本来向けるべきところに体力が向かわないというフラストレーションがあり、それが心理面でもストレスになる。出来うる限り負担を減らし、自分の力を最大限社会に向けていくことが今後の生き方では必須だと思うようになった。

 

自分はたった一人しかいないし、人生もこの一度限りだ。自分に残された時間ももう30年だってないのかもしれない。30代半ばというのは、ある程度社会経験を積み、自分の中で哲学が出来上がる頃なのだと思う。きっと誰にとっても人生の大きな節目になるものだと思う。決断しないといけない時に決断をする、ちょうどその時を迎えている。

 

人生が大きく動いていくような、うねりを感じる。幾分は自分が動かしているものだろうが、自分の場合は運と偶然によるところがあまりにも大きい。いろんな人と出会い、いろんなことがあって、その過程で生き方を微調整していく。航路の先は依然暗く何も見えないが、何を見たいかははっきりと決まっている。

 

34になってもまだ思春期のように悩みながら、これからを考える。

結果非公開主義

受験シーズンが佳境を迎え、僕の生徒たちもぽつぽつと最後の授業を終えていく。私大受験は連日続いており、このあとに高校受験は都立、大学受験は国立が控える。後期もあることを考えるとシーズンはまだまだ序盤とも言えるのだろうが、すでに結果を報告してくれる生徒も出ている。第1志望への進学を決めた生徒もいれば、悔しい思いをした生徒もいる。緊張やもどかしさも抱えながら、生徒と喜怒哀楽をともにできるこの時期は案外好きかもしれない。人間、そう誰とでも純粋な感情を分かち合うことはできないので。

 

結果を聞くにつけ、自分が追い求めているのは特定の学校の「合格」という2文字だけなのかという問題に突き当たる。

 

実はこのところ、思うところがあって他の教育サービスを熱心に調べている。各サービスのホームページなどを眺めて改めて思うのだが、多くの教育サービスが掲げる実績には明らかにランクがあるようだ。偏差値が高ければ高いほど、実績は特大のボールド体で華々しく描かれ、輝かしく映るように入念に細工される。そして数字が下がるのに比例して、文字も小さくなっていく。本来なら主張しているべき「合格」の2文字も、周りに散りばめられる桜に隠れているようにも見える。

 

偏差値を物差しに結果にランク付けを施すのも無理はない。なぜなら教育も所詮は市場で行われているものであり、まさに結果の如何が新たな顧客を生み出す決定要因になるのだから。世間的に魅力的な名前を選別的に前面に出すのも致し方がないことだと思う。

 

しかし、こうした態度は自分が求めているものとは違うように感じる。どんな結果であれ、それはその本人にとって最もかけがえのないものであるはずだ。合格の喜び、不合格の悔しさ、いずれにしてもそれらは彼らの人生をより豊かにするものでなければならない。合格だけを掻き集めてランク付けし、それを商売道具に変えてしまうのは彼らに対して不誠実である気がする。それは彼らの積み重ねた努力に対して極めて失礼だ。

 

伴走者である自分に許されるのは、彼らと結果を情的に共有できるという特権を得るだけだ。それによって自分の価値に結びつけるような傲慢には与したくない。どのような結果になろうとも、それを受け止めて次に繋げられる。それは結果というものに対する指導者の見方が大きく影響するものだと思う。

 

結果に対して当人がどのような意味付けをし、どのように吸収して人生の糧にしていくかが大切だ。それを実現するためには、教育の方からこそ、数字や合否への固着から決別すべきかもしれない。

 

そういうことを考えて、僕はいまたくさん受け取っている結果を外側に対して公開しないことに決めた。それはくだらないことだ。自分の生徒にとっての意味付けができればいいから、内部のみで消化しようと思う。

 

※組織の事情で結果が掲載されることがあっても、僕自身はこの立場を変えない。

怒らない指導

以前、以下のエントリを書いた。

 

anokoro-yokatta.hatenablog.com

 

当時はこの手の欠席は厳しく取り締まっていたが、今は方針を180度転換している。つまり、当欠を完全に許容し、特にネチネチと咎めたりすることもなく普通に振替にも応じることにしている。別に突然僕が優しくなったというわけではなく、システム上の事情がある。

 

実は本丸が自己破産する前は、僕の給与は「その日に行った授業に対して」支払われるということになっていた。従って、当欠をされてコマを実施しないということになったら、その日の見込み収入がその分減ってしまう。僕のお財布事情が悪くなってしまうのだ。皆さんのご想像通りで、英語講師の収入なんてたかが知れている。情けない話だが、一回分の給料がなくなってしまったら大問題である。だから、絶対に当欠は避けねばならない。

 

しぜん、殊更に「当欠は禁止」と口うるさく強調するわけだが、それでも当欠は起こるものである。そしてもしそれが起こってしまったら、僕の給料は消滅する。塾生はお月謝を払っているのに、僕の給料には反映されない。禁止だと言いつつも回収をしなければならないので、当欠を叱りつつも振替を認めることになる。すると塾生はそれに甘えてさらにまた当欠をするようになるのである。よろしくないスパイラルだ。僕の「当欠をするな」は涙ながらの雄叫びであった。教育という大義名分を纏いつつも、裏には非常に不都合なシステムがあったのだ。君たちが休めば僕は生活が苦しくなるんだ、と。本当に困るんだ、と。

 

ところが自己破産後から運営が変わり、そのあたりのシステムも変わった。塾生が支払った分から、その月に実施する見込みコマ給はまるっと支払われることになった。月ごとの固定給だ。フリーランサーにとってこれほどありがたいことはない。かくして当欠が全く怖くなくなり、もし「今日休みます」の連絡が来たとしても、優しい笑顔で「OK!」と即答できるようになったわけである。

 

さて、ここからが興味深いのだが、どういうわけかそこから当欠が激減した。因果関係があるかは分からないけれども、耳の痛いお小言を言われなくなって、塾に来るのが億劫じゃなくなったからだろうか。どうも当欠を繰り返す生徒は「今日塾行くの嫌だな、よし休むか」とその日の気分で決めているような雰囲気があったので。

 

いずれにしても、それに気づいてから怒ることそのものをやめた。正確には「怒る」ことは既にしなくなっていたけれども、「理由を挙げながら諭す」くらいのことはしていた。しかしそれもやめた。宿題をやってこなくても、「そうか!OK!」で済ますようにした。何度もやった単語や用語を覚えていなくても、「OK!ちょっとずつ覚えていこう!」で終わらせるようにした。そして、どうもそちらの方が効果があることを、今はっきりと分かってきたところだ。

 

キャリアはじめの頃は本当に怒った。生徒が頬杖をついて聞いていただけで「授業を舐めるな!」みたいな青い怒り方をしたこともあった気がする。怒ることは仕事の一部なんだと自分に言い聞かせていた節もある。今思えば余裕がなかった。少しキャリアを積むと「怒る」「叱る」「嗜める」「諭す」「注意する」の違いが分かってきて、過度に感情的になることは無くなった。しかし、それでもやはり、生徒に言い聞かせて行動を直させることも大切だと思っていて、何かあれば苦言を呈するようなことは続けていた。

 

こういうことを今まったくしなくなった。「怒る」のレベルがどうであれ、生徒が言われて嫌なことをわざわざ言うことをすべてやめた。どんな伝え方であれ、お小言の類は言う側も言われる側も嫌なものだ。確実に双方にとってストレスになる。そういうストレスが少しでもあれば、学びに大きく影響してしまう。お小言を言う側は権威的になり、言われる側は萎縮する。反抗的になる者もいる。総じて、学びに対して消極的になってしまうのだ。「うん!OK!」の精神で、ストレスフリーに伸び伸びとやらせた方が間違いなく良い。塾に来るのが嫌でなくなる。自ら手を動かし、頭を働かせる。自分で課題を発見し、自分で解決方法を考える。言われなくても自分で宿題を考えて勝手にやるようになる。

 

自分を振り返ると、僕だって偉そうに人を怒れるような人間ではないのだ。できないことは山ほどあるし、思い立っても三日もすればやらなくなるし、学んでもすぐに忘れるポンコツだ。「先生」なんて呼ばれるのがむずがゆい。

 

報酬ルールが変わって当欠に優しくなってから学んだことは大きい。このまま怒ることなどすっかり忘れ、おおらかに学習環境を作り上げていきたい。

塾向けに英字新聞2紙を年間購読することにした

メインで勤めている塾の生徒向けにJapan Times AlphaとJapan Times Alpha Jの2紙を年間購読することにした。新年割引の50%オフで22,000円ほどになる。自腹で払った。痛い出費だが、質の高い学習環境を提供するためにはこれくらいは必要だと思って決めた。経緯のようなものを書く。

 

昨年末から暇を目指して仕事量の調節をしていたが、ありがたいことに忙しい。非常に忙しい。また、これも喜ばしいことに、生徒たちの出来もたいへん良い。ご家庭からのご満足もいただけるようになった。やりがいのある忙しさだ。

 

受け持ちの生徒たちはどんどん英語ができるようになっている。それぞれ進度、レベル感こそ違うが、自律的に学習ができる生徒も増えた。英検準1級くらいであれば、次年度もたくさん受からせられるだろう。1級の実績も出ると思う。そういうきらびやかな見通しがあるくらいに良い。

 

例の自己破産が昨年の1月末だったから、本丸の消滅からちょうど1年が経った頃合いになる。思い返せばこの1年は、負の看板を背負ってでも生き残れるようにと、自分の仕事をじっくりと見直した時期だった。生徒の伸びは自分の努力を映し出している気もして誇らしい。この期間、内省を繰り返しつつ目指したのは、より目的ドリブンでシステマティックな指導体系だった。ある程度マニュアル化して、指導者によらず画一的に効果を出せるような方法論が組めれば良い。

 

フレキシブルさを残し、トレーニングを施せば指導者を選ばないようなシステムを作ろうというのが当初の目的だったが、皮肉なことに僕のもともと強い理念をさらに尖らせてしまう結果となり、結局誰にも真似できないアプローチを作ってしまった気がする。あんまり伝わらないだろうことは前提に、考えていることを頑張って書いてみる。

 

トップダウン的な知識授受行為をなるべく排除して、生徒自身のあたまの中をステージに、そこで展開される思考回路に即した学習を促進する。彼/彼女が持つ独自な思考チャネルを見抜いて、それを広げ、繋げていく。そのために目の前で学習行為をさせて、観察し、動作の機微からタイミングを見ながら対話を行ってあたまの中を察知する。彼/彼女が行う個別的な学習習慣そのものを延長し、成功体験へと繋げる。

 

学習を「定期テストまで」あるいは「受験まで」といったような短い物差しで見てはいけない。子どもたちにとって、10代の学習は今後の人生ずっとずっと続く生涯学習のほんのスタート地点にすぎない。ぎこちない学習行為は、脳の成長とともに質的改善を伴いながら、今後の60年あるいは70年80年にわたる「学び」プロセスの礎になる。指導者は1年後、2年後、3年後のみに捉われず、今この瞬間の学習行為が長いスパンで見て人生をどう支えるかを考える。「成績向上」「合格」を建前に、人生プランの基盤たる学習形成を目指す。

 

何だかよくわからないことを言っている気もするが、こういうことを延々考えている。こういうことを考えていると、指導者が自身の学習経験を絶対視したりとか、自身の知識的枠組みが他より優れているとか、そういった思い込みに立ってものごとを「教え」たり、それを軸に学習行為を大きく変えたりすること自体問題があるように思われてくる。英語に関して言えば、指導者のあたまの中、あるいはもっと言うと「英語教育」という箱庭にあるフレームワークからあえて離れるような指導を組み込まなければ僕の理想は実現できないように思われてくる。

 

指導空間に教科書と参考書と、視野狭窄の大元になりうる指導者「しか存在ない」ということが大問題に思えてくる。リアルな世界に向けて開いた扉がなければならない。本棚にいろいろと本は置いて見ているがどうもアピールしない。だから簡単なペーパーバックやグレイデッドリーダーズなども置いてはいるが、今年は新聞も置いてみる。

 

どれだけの塾生が興味を示すか分からないが、指導を僕の理想に近づけ、より良い指導空間を作るためには必須なことのように思われる。お財布には痛いがこれでいい。泣きながら購入ボタンを押したので塾生にリーチしてほしい。たのむ。

結果

久しぶりにブログを更新する。タイトルは意図的なものだ。幼稚な性分なので。しかし時期も時期だし良い機会なので今年一年を自分なりに振り返りながら、自分が得た結果についてキーボードを叩いてみようと思う。

 

(このエントリは、昨日自分の仕事に関して投稿したXのpostの覚書でもある。先に断っておくが長い。)

 

今年は本当に仕事をした。うまい具合に次から次へと仕事をいただき、途切れることなく本当にずっと頭と身体を動かしていた。いろいろな経験をしたいというのもあったが、正直お金がどうしても必要だという事情があって入ってくるものは全て受けた。特に4月ごろから10月の半ばごろまでだろうか、睡眠時間もろくに取らずに朝から深夜まで働きづめという期間があり、最初はなんとかまあもったはもったのだがそのうちもう身体が動かないということになり、方々にご迷惑までお掛けした。おそらくその影響で10月おわりに仕事がやっとひと段落しだした頃合いに、身体もずいぶんとほっとしたのか、立て続けに2回も高熱をやった。疲れたところに気が緩んでのことだと思う。これまたお客さんとお仕事先に迷惑をかけた。結局身体がいちばんの資本だ。そういう言葉は今まで何度も聞いてきたが、元気だから大丈夫だと話半分だった。今年はこれを身に沁みて知った。

 

仕事に精を出したぶん学びも多かった。1月の終わりにメインで勤めている個別塾の本丸が破産したのは大変だった。身を置いている教室は別運営ではあったけれども、正直怖いところもあった。しかし危機を境に運営状況を自分なりに見直し、システマタイズされていない部分をしっかりと固めることができた。もちろん自分一人だけが仕事をしたというわけではない。昨年からお世話になっているオーナーには曖昧だった報酬体系を見直していただき、安心して仕事ができるようになった。また、当時もう一人在籍していらっしゃった講師の方とも協力しあい、生徒さんの管理体系の雛形も出来上がった。

 

雇われの身ながら現場ではワンオペの指導体制で、実質の教室運営は僕自身というふうになっている。だから指導の上では誰かが決めた方針など気にする必要もなく、のびのびと指導ができる。これは本当にありがたい。僕は非常に頑固なところがあり、自分のポリシーに反することを押し付けられることにとてつもないストレスを感じてしまう。ストレスを感じるだけならまだいい。社会性がないからいけない。自分が違うと思ったら絶対に違うと信じ込み、反抗し、衝動的に組織をやめてすぐ無職になってしまう。本当に良くない。(良くないがこれを繰り返している。)しかしそういう意味では半ば放任の今の状況は心地よい。自分の信念をそのまま仕事に変換できるのだから。

 

自分の理想を試してみては生徒の反応を見て修正を繰り返す。実践があるからこそ理想はますます洗練され、最も凝縮された形で理論化される。頭の中にばらばらと散らかっていた経験知が次々つながっていき、理論知として綺麗に整理されたように思う。すると本当に面白いもので、今まで全然見えていなかったことがぱっと意味を持ったものとして目に入りこんでくる。生徒の持つ鉛筆が止まったその瞬間が、何かを決定的に伝えるサインとして現れる。生徒の発したせりふの微妙な言葉遣いが、彼らの脳内を伝える重要な手がかりとして僕を揺さぶる。指導空間で彼らが見せるすべての言葉、ふるまいがすべて指導のヒントに思えるのだ。そしてそういうヒントをつないでいった先に、目の前の生徒に何をどのタイミングでどのように指導すればいつの時点で何が実現できるかが見えることがある。朧げなこともあるが、はっきりと見えることもある。この研ぎ澄まされた感覚は今年になってはじめて得た。以前に勤めていた個別塾で上司にあたる方から「指導でいちばん大切なのは察知力だ」という言葉をいただいたことがある。この言葉の重要性が今、強力な実感を持ってわかる。

 

集団指導のほうを思い返すと、強みの英検の経験を活かしてコースのオーガナイズを担当させていただくという素敵な機会をいただいた。どこの塾予備校でもやっているような板書指導とは全く違う、本当に英語を伸ばせる方法を四六時中考えた。深夜の仕事帰りに最寄り駅まで帰らずに、わざわざ手前の北千住で降りて家まで30分テクテク歩きながらずっとずっと、永遠に考えていた。これも自分の中の理想がきゅっと締まっていき、具体的な形を帯びていく重要な経験だった。こういう経験を与えてくれる職場には感謝しないといけない。自分のプロフェッショナリズムの原型が固まるような素晴らしい一年だったと言える。

 

結果できた指導システムは自分の理想が詰まった本当に素晴らしいものだと自負している。嬉しいことに生徒さん、そしてその保護者の方からの評判も良いようだ。しかしシステムを作るにあたってひとつ難しい障壁にも直面した。再現性の問題だ。僕がつくったものだから、当然僕のやり方に最もアジャストされている。僕がやるのがいちばん効果が高い。実績も出るに違いない。しかしこれではいけない。これではシステムと呼べない。あるスキル水準を達成した者なら誰でも安定して実現できなければいけない。要するに、属人性をできる限り排除しなくてはならない。

 

この点に関しては今も正直悩んでいるところがある。人間が行うものである以上、その人間の知識や経験のみならず、思考回路、行動習慣、生い立ち、思想すべてがその人間ベースで行われることになる。行う内容や手順に関してレールを敷いたところで、その解釈に齟齬があれば、同じことを同じようにやってみても実のところそれは「ふり」に過ぎず、単にプロセスをなぞっただけでせっかくシステム化したものの良さ、あるいは意図というべきか、それがまったく反映されないことになる。こういう悩みを経て自分なりに行き着いた答えは次のようなものだ。

 

(以下、一通り書いてみたが自分のためのメモに過ぎず大変読みにくいので、読み飛ばしてもらっていい。)

 

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指導システムを創る上で重要なのは以下の要素である。

1. Objectives

2. People

3. Steps

 

上記がこの順に大切になると思う。ひとつひとつ僕の頭の中にあることを整理する。

 

1. Objectives

最重要なのがObjectives(目的)だ。その指導システムが何を目指すのか。ここが根源となってMotivation(目的意識)が生まれる。指導員の目的意識が学び手の目的意識へと連鎖する。

 

目的は一つではない。システムに組み込まれるすべての学習行為それぞれに、それを支持する目的がなければならない。たとえば音読を組み込むのであれば、それがどのような目的のもと組み込まれているか、ダイレクトに紐づいていなければならない。

 

目的意識は指導員と学び手でオーバーラップはするものの、完全に同一であってはならない。指導員は常にひとつ次元を超え、俯瞰的に先まで見えている必要がある。つまり、指導員の目的意識と学習者の目的意識は、前者が後者を包含するような関係にある。これが実現していれば指導の質は高める。システム化の上では、この両者の目的意識まで広げて考えなければならない。

 

2. People

目的を達成する手段はシステムの中にある個々のステップではない。あらゆるステップは指導員を通して実現する。従って、指導に関わる人間の方が、実行される指導ステップよりも上位にあるべきだ。

 

目的に裏付けられた各々の学習行為は盲目的に行われるものではなく、指導員の知識体系や経験というレンズを通し、最適化された状態で行われるのが理想だ。「この絵を寸分違わず模写してください」ではなく、「この絵をあなたのパレットとあなたの想像力で最も美しくアレンジしてください」というふうになれば良い。ただし、絵がまるで原型を留めないのは良くない。だからこそ指導で行われる学習行為には強固な目的を結びつけ、それによって予め錨を下ろしておかねばならない。

 

3. Steps

システムがシステムたる所以は、何をいつどのように行うかがテーブル化されていることにある。Steps(手順)は5W1Hを明らかにした具体的な形で、緻密に組む必要がある。しかし、それが度を越してしまうと手順を踏むことそのものに目的意識がすり替わってしまう恐れがあり、そうなるとシステムそのものが瓦解していることになる。

 

Stepsは緻密な形で提示はされるべきだが、同時に柔軟でなければならない。指導員の裁量がきくものでなければならない。現場の状況によって取捨選択が行われなければならない。あくまで目的ベースであり、ゆとりがあるべきだ。

 

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ここまで、読者がいることを忘れ、読まれることを無視して書いてしまった。これは自分が今後参考にするメモとでもしておこう。とまれ、こうしてキーボードを叩く指を止めることなく頭にあることがパチパチ言語化されていくのは、それ自体がこの1年の仕事の密具合、充実さを表しているように思う。

 

こうして振り返るとずいぶんと仕事を頑張ったものだなと思う。昨日Xでまだまだ尻の青い小坊主に「結果を出すことに(自分ほど)こだわっていない」との評価を下された気がしているのだが、まあたしかに「結果を出す」ということには執着していないのかもしれない。しかしそれは、教育における「結果」の意味するところが件の小坊主のような数値(ゲームの順位?とかフォロワーの数?とか)とは根本的に違うからだろう。教育を真剣にされている方ならば分かっていただけるんじゃないかと思う。

 

中高生指導に限定して思うところを書くが、子どもたちに本当に豊かさを与えるのはテストのスコア、偏差値等々の数字などではない。断じてない。「合格」の2文字でも決してない。そんなものは教育においては建前に過ぎないのだ。申し訳ないが、建前を本気にしている人間は指導職に向いていない。万が一、もし万が一、恥ずかしげもなく「結果がすべて」と数字やら合格やらを誇らしげに挙げる人間が教育で商売をしているとすれば、その人間は即刻看板を下げるべきだろう。

 

月並みだが、大切なのは数字や合格を得るまでのプロセスだ。いや、数字など得なくてもいい。見栄えの良い「結果」など得なくても、子どもたちがそこに至るまでのもがきの中で何を経験するか、何を感じるか、何を学びとるか、教育の本音の部分はそこにある。

 

ちょうど数日前、個別塾の方で2年前に指導していた生徒さんから連絡があった。進路も決まって今は大学生の生徒さんだが、実は現役の大学受験で「結果」を得られなかった。うまく導けなかったことは自分の責任もある。推し量ることしかできないが、その生徒さん自身も悔しい思いをしているに違いない。その生徒さんが、今年現役で届かなかった大学・学部を受けることになったと、だからそれまで指導をしてほしいと連絡をくれた。英語の成績も送ってくれた。現役時とは比べものにならないくらい上がっている。勉強したに違いない。卒塾してからの2年間、得られなかった「結果」を前にして、自らを推し進めた姿に感動した。

 

「合格」なんかよりもよっぽど素敵な結果がそこにある。そういう生徒さんに会えて、そのサポートができたことにこの上ない喜びを感じる。同時に、そういう人間教育を含めた指導を僕はしたいと思う。数字や合格はたしかに大切だ。それは子どもたちにとっては人生のすべてであるかのように見える。しかし、指導者がそれを子どもたちと同じ目線で追ってはいけない。僕たち現場の指導者にとっては、そういったものはひとつの達成目標に過ぎないのだ。それを達成するために何を行なったか、教科知識に限らずもっともっと幅広く何を語りかけたか、どう背中を押したか、勇気づけたか、何を見せたか、そちらの方がよっぽど大切なのだ。駿台予備校の故・表三郎師の晩年の授業はほとんど雑談ばかりだったという。僕は師の思いが分かる気がする。

 

ああ、むきになってブログなど書いていたらもうこんな時間だ。クリスマスに変わる瞬間をマックで過ごすことになる。今年も変わらないなあ。しかし、これでいいんだ。こうやって教育に夢中になるあまり、時間を忘れて1時間も2時間もキーボードを叩く、そんな聖夜も悪くない。尻の青い小坊主は自分に矢印が向いていることだろうから、こんな掃き溜めのブログには興味もないだろう。ブロックされているからクリックもしないに違いない。もっとも、何かの間違いでこのページに辿り着いてもここまで5,000字も読めるかどうかはわからないが。

 

さあ、帰ってご飯を作って明日の準備をしよう。28日くらいまで年末最後の大忙しシーズン。納めたら年末年始は実家に帰省する予定。

 

ほいじゃあの。

うちの生徒たちは逞しい

僕が勤務している個別指導塾は1対多の指導形態で、1コマ90分につき大体3人くらいを見たりするのでけっこう忙しい。上記の場合だと単純計算で一人あたりの持ち時間は30分。その間に生徒の発言や振る舞いから必要なことを察知し、なるべく最短ルートで説明と訓練を施さないといけないので、割に頭を使う。

 

生徒からすると、僕が見ない時間というのがかなりあることになる。たとえば教室に3人いれば、1時間は自分で何かをやらないといけない。だから大体、慣れないうちは僕が「これをこういうふうにやりなさい、ノートはこんなふうに使いなさい、わからない場合はこうしておきなさい」などと具体的に指示をしておいて、たとえ僕がそばにいなくとも、自分で手を動かせるようにきっちりお膳立てをしておく。

 

入塾したての頃は言われたことをなぞるだけなのだが、やり方を掴んで余裕が出てくると、その時間に何をするかを自分で決めるようになる。たとえばある生徒は、教室に着くなり「今日の時間は教科書のここの部分を訳していくので、できたらチェックしてください」と学習予定を自ら宣告する。またある生徒は、「今日はまずはここからここまでの単語を覚えるので後でテストをしてください」と言い、アプリで単語の発音を聞きながらノートに書いたりぶつぶつ発音したりして記憶に励んでいる。90分ずっとペーパーバックを読んでいる生徒もいれば、授業中に小さな声で音読をする生徒もいる。基本的な学習の型は指導しているのだが、こうして眺めていると小学生から高校生までいろいろな学び方があり、それぞれが自分の目的に合わせて試行錯誤しているのが分かる。

 

こういう感じだから、本当にうちの生徒たちは逞しくなる。自分で何をやればいいかを考え、そのプロセスで与えられた時間や僕というリソースをどう使うかを自分なりに考えている。こうなると強い。僕が一生懸命しゃべり散らかすよりも間違いなく伸びる。

 

これまでいろんな指導形態を経験してきたが、単に僕が知識を整理したり提示したりするだけの指導空間は、「分かった」という感触は植え付けられても、実際に英語力を伸ばせるかと言えばほとんどの場合はそうではなかった。だからそういうことが求められる現場では、アンケートは良くても、英語力を上げられた実感は全くと言っていいほどなかった。

 

いま関わっている個別指導は、英語力を上げられている手応えがはっきりとある。つきっきりで知識の整理確認をしたり提示をしたりするのも大切だけれども、適度に放任の時間を取るというのも、自主性を養う上で本当に大切だとつくづく思う。

 

「あえて教えない」というのは勇気がいるが、質の良い指導をしたいのであれば欠かせない視点だ。前々から感じていることだが、学習者側がいつまでも「教えてください根性」のままでは、達成できる水準は限られる。そういうマインドセットからいかにポジティブに舵取りをしていくかは、今後も真面目に考えるべき課題だ。

 

今年も入試が近づいてきたけれども、うちの中3生・高3生たちは大変期待がもてる。指導をしていると学習者たちの「成長痛」が聞こえることがある。この時期、うちの受験生たちは教室でおのおの学習を進めながら、めきめき、と音を立てている気がする。