ゆるふわふぢげたんカフェブログ

森の小さなカフェの常連の英語講師(藤本亮太郎)によるブログです。お店の日常をあげているインスタもよろしくおねがいします。@koshinkokunihon

講師オーディションの結果について思うところ.

先に断っておくけど,これは僕の思考整理を試みたものであって,同意を求めるものとかではありません.英語教育界隈向けのエントリです.講師オーディションの決勝動画(岡崎先生Junko先生パト先生、50音順)とその結果を見てから読んだ方がいいと思います.

 

講師オーディション決勝の結果が出た.あんまり多くをツイートしていなかったけど,自分も英語教育に携わる身とゆうのもあってしっかりと全ての動画をチェックしていた.普段は見られないひとの授業が見れたり,教育の新しい可能性を見せてくたりする大変刺激的なコンテストだ.教育人としても学ぶところは多いし,学習者としても有意義なところばかり.今回もそれぞれの先生がそれぞれに素敵な授業をされていて,学習面・指導面ともに学ぶところが多くあった.

 

予選から大変に素晴らしい授業ばかりだったから,ファイナルの3人を選んだ先生方の思い悩みも大きかったことと思う.岡崎先生は,映画の実例を効果的に用い,if notとゆう盲点中の盲点をテンポよく見事に解説された.Junko先生は,クリアで美しい発音とともに,生徒あるいは指導者も見落としがちな音声面での穴を指摘し,誤りの原因も交えて丁寧に説明された.パト先生はその突出した独創をたのしいイラストでストーリーに織りなして,英文を読む際に必須の視点をあざやかに捌いて見せた.どれもが唯一無二で,他の誰にもできない魂のこもった作品に見える.だからこそ,見ているこちらも力が入るし,何度も視聴して全てを吸い取ろうとさえ思える.もちろんこれはファイナルに進まれた方だけの話ではない.予選,あるいはきっと予選に進まなくとも,全ての提出された動画がそうであるに違いない.それぞれの現場で戦われているそれぞれの先生方のそれぞれの思いが詰まっている.

 

思いの丈を乗せたこうした作品は指導の良し悪し以上に,これからの教育のあたらしい可能性を秘めている.時代は着実に変わっており,新しいデバイスの出現とともに新しい教育形態も試みられ,時代の要請とともにそれも徐々に根付いてきた.この1年でオンラインとゆう形態はすっかりお馴染みだし,映像や音響やアニメーションを効果的に取り入れたり,スマホのアプリケーションで学習を記録管理したり等々,つい10年,20年前には思いもつかなかったほど教育法はバリエーションを増した.喜ばしいことに,ますます広がる選択肢のおかげで,教育は以前よりも確実に手に届きやすいものになった.

 

こうゆう態度で講師オーディションを見ていたから,今回の「優勝者なし」とゆう結果には違和感があった.関先生は「優勝に値する授業がない」とゆう評価と思われるが,成川先生と福崎先生はそれと同様なのか,あるいは「全員優勝に値する」とゆう評価なのかも分からない.そもそも,審査員の仕事は3つの挑戦からひとつを選ぶことではないのか,とゆう思いも強い.どれも方向性が違うから甲乙付け難いとゆうのは分かる.それでも,そこから「自分はこれが良い」と判断するのが役割ではないのか.その役割に了解があったから審査員を引き受けたはずだと思うのだが,その責任を果たされたのは安河内先生ひとりだけだった.「該当者なし」と評された先生はなぜその結論に行き着いたのかも明確にされなかったから,ただただモヤモヤしただけで終わった.後述するけれども,関先生に至ってはTwitter上で「下手」のひとことでばっさりと斬り捨てられたが,これにも思うところがある.

 

成川先生は「異種競技の審査」とゆう言葉づかいをされていた.おそらく最後にコメントされた福崎先生も(なんと2日間悩まれたそうだが)同様のお悩みがあって「該当者なし」とされたのではないかと推察する.ところが,僕はこの「異種競技」感が判断不能の根拠になりうるかとゆう点に大きな違和感がある.リンゴと大根と鶏肉どれが好きか,と問われて,「う〜ん果物と野菜と肉は比べられんなあ」と答えるかどうかとゆう話に似ている.これは実感しか伝えない極端で下手な喩えだけど,プロであれば,各人の好みは認めた上で,様々な尺度をもって判断できて欲しい.長年教育に携わってきたプロだからこそ,高みから俯瞰して欲しい.別に「トミカとリップクリームと土どれが好き?」みたいな究極の極端を問われているわけじゃないのだ.「英語の授業としてどれが最も魅力があると思いますか?」とゆうシンプルな問いに,プロとして俯瞰して見て答えを出せないのであれば,審査員が審査員として力量不足だったとゆうことだろう.「該当者なし」とゆうならば「全員に一票を与えます」の方が責任を果たしていると思ったが,そうゆう先生もいらっしゃらなかった.

 

関先生はご自身の基準に従って,4人の審査員の中でもっとも分かりやすく,かつ丁寧に評価をされた.ところが,動画の後に出されたTwitter上でのコメントは不快を催すものだった.「下手」とゆうのがどのような意味を込めているのか不明だが,「この先生に習いたいなと思わせる(*ご自身が評価で使用されていた表現)」方の発言では到底ない.審査員の役割として,授業の評価はしてもいいと思うのだが,その評価の中でひとつを推挙するとゆうもっとも求められている役割を「下手」の一言で誤魔化してはならない.前述したとおり,それは審査員としての明らかな力量の不足である.
*重々強調しておきたいのだが,このエントリは関先生を批判するために書いたものではないので,読み手となる方も十分に気をつけていただきたい.

 

さて,このような中途半端な結果で参加者・視聴者をモヤモヤさせてしまった原因のひとつには,やはり審査員が「同一種目競技」,たとえば「ザ・予備校講師」的な同一範疇での試合を期待していたから,とゆうのがあるのだろうと思う.もしかすると審査員は「黒板をバックにあざやかな話術とかろやかなチョークさばきでオーディエンスをあっとゆわせる神授業」を期待していたのかもしれない.「動画で3分」とゆう条件からこれほどまでに様々な可能性が生じうるとゆう点を想像されていなかったとゆう点はあると思う.今回の結果を「該当者なし」と宣言してしまったことで,審査員の視野の狭さを露呈した風に映る.せっかく注目が集まっていた企画なだけに,今回の結果が今後の審査基準の方向性を決定づけ,従来的・固定的な講師像を求める態度を明らかにした点は残念だ.

 

この仕事をしていると,「予備校全盛期」とゆう言葉を聞くことがある.職場の大先輩が若造に聞かせるように教えてくれることもあれば,酒の場でたまたま隣りあったオジサンが,僕が教育人と知って懐かしげに語ってくれることもある.予備校が用意した大教室の何百とゆう席,それでも限られた席を,我先と陣取ってレコーダー片手に超有名講師の講義を聞く.講師にしても客たる生徒にしても,これが教育だ,これが講師像だ,そんなスタンダードが通用する時代がたぶんあったのだ.ところが,僕がこの言葉を聞くときはいつも懐古のトーンを帯びているように感じる.自分の職場の現場感覚とも著しくズレを感じる.「ザ・予備校講師」が教え手のスタンダードであった時代はとうに終わった.手元にあるあらゆるデバイス,あらゆるアプリケーションを使って,教育のやり方をどんどん拡張していく時代だ.「編集に頼りすぎちゃって講師の生のものがない」とゆうのはモリテツ先生の最後のコメントだが,編集技術やパト先生みたいなイラストだって,黒板とチョークと同等あるいはそれ以上の力を持つ強力な武器だと思うし,僕はそれをもっと許容する風潮が欲しい.

 

講師オーディションという場は,動画というミディアムを通して,この時代だからこそできる全くめあたらしい教育を見せてくれる.そうしたあらたな可能性にワクワクドキドキしている人間がここにいる.どうか参加された先生方の挑戦を無下にはせずに,柔軟で自由な企画となって,教育にあたらしい風を巻き起こして欲しい.サービスの価値はサービスの受け手が決めるとゆう点も踏まえ,審査の軸を再考察してはどうだろうか.オーディションとゆう企画が英語教育業界全体の共有財産となり,業界をより流動的に変えていく場になれば,見ていて心地も良いし,今は単に傍観しているだけのこの身も参加したいと思う.

めしつくり体験.

こっちに出てきて一人暮らしをはじめて11年になる.

 

俺は実家が成り上がり地方豪族みたいな感じだからまあ甘やかされていたもんで,こっちに出てくるまで家事なんて全くやったことがなかった.洗濯掃除料理,家事の類はぜんぶオカアチャンがやってくれていた.生活のイロハも知らずに突然東京で一人暮らしをはじめたから,最初のうちはけっこう生活の仕方に苦しんだ.

 

やっとこさ家事を人並みにこなすことができるようになったのはわりあい最近かもしれない.元来掃除も好きじゃなかったし,一時期まではけっこう部屋が散らかってて汚かった.ゴミ出しの日を忘れて大変なことになったことも一度や二度じゃない.生きるのに最低限必要な所作は子供の頃からどうにかして仕込んでおいた方がいい.家庭科の授業とか,けっこう大事なんじゃないかと思う.俺は子育ての経験がないけど,こうゆうのは家庭でも面倒見れそうな教育として大切にしていいなと思う.

 

一人暮らしして初めて作った料理のことを覚えている.野菜を炒めればいいんだろうと思って,モヤシと茄子を買ってきた.いま思うとあんまり良い組み合わせじゃないよなあ.まあ当時は素人だったからそうゆうものを作ろうと思って,フライパンに油敷いて火をつけて,モヤシをどばっと投入.それで,ここからが馬鹿なんだけど,モヤシを入れた直後に茄子を切り始める.なにぶん素人だから切るのにも手間取る.そもそも切り方からわからないんだから,どう刃を入れるのが良いか考えたりするわけ.不揃いでぶざまな形にゴトゴトやってると,高温の油の上にのっかったモヤシが煙を発している.やばいと思って何を血迷ったか水を投入.茄子を切り終わったときにはモヤシがお湯の中にくつくつ揺らいでいる.ええい,ままよと茄子投入.火が入るまで待ってたらモヤシはくたくたで透明になって全然美味しそうに見えない.ひとまずお湯を捨てて,醤油をかけて一口食べてみたら不味いのなんの.食えたもんじゃなかったので捨ててしまった(農家の方に申し訳ない).炒め物に失敗したとお袋にメールを送ったのを覚えている.

 

それから後はあんまり詳しく覚えてないんだけど,味噌汁を覚えて,炒め物を覚えてと,インターネットのレシピなんか見ながらちょっとずつ「男の自炊」を組み立てていった.料理に興味があったわけじゃないから,食えれば良いってスタンスで適当に作っていた.白米と味噌汁と冷奴的な感じです.

 

20代の初めで居酒屋バイトをはじめてから料理がもっと身近なものになった.おじいちゃんのマスターが一人でやってる赤提灯のこぢんまりした店だ.cozyってことばが似合ってるんじゃないのかな.初バイトの日,まかないをいただいたんだけど5分くらいでシュババって食ったら怒られた.「料理はそんな食い方するもんじゃない,もっと時間をかけて味わいなさい」と.うーん確かにそうだと驚いた.料理は生命を食べるとか,作り手の真心が込められてるとかゆうけど,だったらばいただく側もそれに応える心意気で臨むのが当然だ.部屋で自分ひとりで食べるんなら構やしないだろうけど,その場に作り手や一緒に楽しむ相手がいたら,食べる作法も気にかけないとといけないね.

 

作法とゆえば,マスターは食い道楽だったからいろんなお店に連れてってもらったんだけど,一回俺が箸を茶碗の上に置いたことがあるんだよね.瞬間,マスターが職人の眼差しをきっとこちらに向けて「箸置きがあるんだから箸はそこに置きなさい.道具が出されたら,ちゃんと役割を与えてやりなさい」と.マスターは「役割を与える」ってゆった.俺はそれまで食器をそんな目で見たことがなかったから,これはけっこうビビったなあ.なんとゆうか,モノに対する敬意がすごいんだよね.本物の職人だなと思う.俺はそこから,料理に限らず「そこにあるものには役割を与える」とゆう態度は大事にしている.生徒にも授業で言ったことがある.消しゴムを使わずにぐちゃぐちゃって塗りつぶす生徒いるじゃないですか.それに,消しゴムに役割を与えてやらないとダメだよ,とか.この姿勢は死ぬまで大事にしたいなと思う.

 

居酒屋では給仕と酒作りしかしなかったけど,真隣でマスターが調理してたからじいっと観察して家に帰って試していた.白身の煮付けはこの味付け,青身だったらこう,茄子は高温,バターや水飴はコクを出す,塩味は舌を騙して旨味と思わせるなどなど,マスターの腕が織りなす魔法,それから暇なときにブラブラ出てくる蘊蓄でいろんなことを学んだ.舌もだいぶ訓練されて少しは鋭くなった気がする.いまでも一人暮らし男の趣味程度にしかできないけど,料理はだいぶ好きになった.そのまま舐めてもクソ不味い調味料も,あわさって絡み合うと一気に美味しくなる.そこにストーリーがあるから好きなんだ.俺はストーリーがあるものは本当にめちゃくちゃ好きなんだよな.

 

昨日ヒラメをやろうとしたらカレーが出来ちゃった話をツイートしたけど,ああゆうのなんかもしっかりとストーリーだ.まな板の上に食材置いて眺めてるとゴールを忘れてワクワクする.ああしようこうしよう,あれを入れたらうまくなるだろう,これを入れたらどうだろうとか,いろんな筋書きがばちばち頭の中で弾けて,繋がって,入れ替わって,そんな妄想を頭の中で繰り広げていたらいつの間にか手が動いている.それで気づいたらヒラメがカレーになってるわけ.そのカレーが今日のヒラメでソースになってたりするから面白いよね.失敗もあれば成功もあるわけだけど,そうゆう筋書きの種が自分の中に溜め込まれて行って,この前外で食べたあの料理の味とか,ツイートでたまたま目に入ったフォロワーの料理写真とかいろんなものがトリガーになって,ああでもないこうでもないと夢中で組み立てていく.英文解釈みたいじゃん.まあゴール決めて作ることが大半なんだけど,昨日のはよかったな.寄り道したら全く違う街につきましたが用は果たせましたみたいな感じで.

 

ブログのネタ何にしようってぽんにゆったら自炊にしろって返ってきたから思いつくことをつらつら書いた.コロナが終わったら久しぶりにマスター誘って美味しいもん食いに行きたいな.そうゆえば箸置きの教訓を語ってくれたマスターは酔っ払うと箸置きを使わないんだよね.「人間」って感じだなあ笑

 

今日は受験勉強をしなかった.

今日は大学のときの教科書を読んだ 〜くそったれ!大学時代(1)〜

今日は大学のときの教科書を読んだ.

 

なんだかんだ大学に未練たらたらなので,もう一度コマバで学生やっていろいろ取り戻したいななどと思っている.

 

anokoro*と比べると英語の力は本当についた.在学時からだけど,泣きながら基礎をしっかりやってよかった.いまだに満足に読めも喋れもしないが,それでもanokoroの億倍くらいはできるようになった.今なら,当時読めなかった論文も読めて,レポートも書けて,ディスカッションにも参加できるんじゃないか.今なら,あのときできなかった諸々をこなして自分を認めてやることができるんじゃないか.挫折が大きい分最近はそんなことを思ったりしますね.まあ節目の年齢迎えたからとゆうのもあるのかもしれない.今日などはふと大学のときの学部の指定教科書を思い出して,棚から出して読んでみたりした.

* 俺は自分の好みの問題で「あのころ」をanokoroと表記する.これは「言う」を「ゆう」とゆうようなもん.

 

A Political History of the USA: One Nation Under God (Bruce Kuklick)

 

実は過去にも何度か引っ張り出してきては目を通し,自分の成長具合を確かめている.1ページ目からマーカーだらけで,claimedに黄色マーカーして下にdemandとか走り書きしてたりする.うーん本当に英語分からなかったんだね.claimくらい分かれよと思う.7年か8年そこら前の話じゃないか.

 

ひととおりパラパラと読んでみたけど,特につっかえることなくスーっと読めている感じ.まえに読んだときは1行1行目を動かして「大きな滞りなく読めているな」とゆう実感だったんだけど,今日はむしろパラグラフをもっと雑に眺めながら意味が入ってくる感じ.たぶんだけど英語の構造把握が無意識化できるところが増えたのと,単純に情報処理能力が上がったんだろうね.気になったところはwikipediaとか適当な記事をあわせ読んで英語で理解を深めたり裏付けたりすることができる.こうゆうのも最近はわりとパパーっと読めている実感が強い.敗北したものをしっかり捨てずに取っておいてよかった.無意味に人と英語力を比べなくてすむからな.自分の比較対象に自分を置くのは卑屈にならずにモチベーションをしっかり高める賢い手だと思う.

 

disproportionatelyとゆう単語に黄色いマーカーがふってあり,「ふつりあいに」と書かれてあった.俺はこの語で恥ずかしい思いをしたことがある.この教科書とは別だけれども,表象論かなにかの輪読の授業でこれを「ふつりあいに」とそのまま訳してみたところ,先生とクラスから失笑をいただいてしまった.あんまり文脈は覚えてないのだけど,「ふつりあいに」とゆう訳語がとてつもなくふつりあいな文だったのは覚えている.先生に「そこは〜と〜が規模的に見合ってないことを考慮して別の日本語にしないとダメだろう」みたいなことをゆわれた記憶がある.ああそうやって読むのかとゆうエウレカエフェクトもあったんだけど,それよりももっともっと恥じの方を感じた.隣でサークルの後輩も笑っていた.英語はおもんないなと心底思ったね.

 

当時英語は本当におもんなかった.クラスの外人と会話が全く通じなかったもんだから,いろんな授業でいつも孤立してたし,白人の青い瞳とか黒人の暗い肌とか見て「コイツら自分とは異種だな,怖いな」とか思っていた.差別主義者みたいだけどこれは本当で,けっこうマジで連中はベツモノだと思っていた.まあベツモノではあるんだろうけど,多少なりとも話が通じ合ってたらそんな冷たい見方もしてなかったんじゃないか.

 

日本人のクラスメイトはまあ帰国が多かった.俺は同期とはあんまり折り合いが良くなかったんだけど,ひとつ上にアカネっちとゆう帰国の女の子がいて,この人はけっこうよく面倒みてくれた.根っからの陽キャで,出来損ないの俺にいろいろ教えてくれたりしたんだけど,結局最後に投げ出して期待を裏切ってしまったなと思う.期待とゆうか,好意*をないがしろにしたんだね.よくないことをしたなと思う.

* フレンドシップに基づいた好意のことです.

 

アカネっちはひとつ上だったから卒業してからは友達がますますいなくなって非常につらかった.学部じゃ孤立マンだったから,院生のカトウさんと良く遊んだ.立命からやってきた貧乏で面白いパイセンだった.いつも生協の98円のシーフードヌードル食ってたな.深夜のコマバで建物に侵入してよくわからん地下に潜入してたら警備員に見つかって慌てて逃げたこともある.大学生だなあ.

 

卒論中間発表の原稿とかはけっこう頑張ろうと思って研究室に泊まったりしてた.1日数ページ程度だけど一生懸命読んで,なんとか英語で2枚くらい書いて中間諮問会に出席した.俺は英語じゃなくてもそうなんだけどけっこうマネゴトをするのが得意なんだよね.当時英語を書いてたときもそうで,まあそれなりに読んだものだから,なんかこの言葉はこうゆう使い方してるなってのをしっかり察して,そうゆうのをくっつけて原稿を書いた.そしたらどうもその英語がけっこう出来がよかったようで,教授陣が「オマエの英語力でこの英語を書けるわけがない,丸写しではないのか」みたいなことを指摘してきた.科で一番怖い矢口ユージンとゆう先生(コマバ同期の人にすれば有名人だろう)が俺の目を見て,一語一語たしかめるように,Did you really write this? ってゆうワケ.それで俺はなんとそこで「いやいや,僕が書いたに決まってるじゃないですか!!」のつもりでNo!! No!!ってゆっちゃったんだよね.いやあこれは疑われても仕方ないよね.本当にバカだなあと思う.このシーンはマジで焦ったからけっこうくっきり覚えている.

 

疑われ事件がきっかけでけっこう何もかもどうでもよくなった.まあ誰も評価してくりゃしませんよみたいな幼稚な落ち込み方をしてそのままズルズルと…とゆうわけです.今思い返せば授業態度も悪かったし,疑われても全然しかたないですね.

 

どうでもいいことを思い浮かぶままツラツラ書いてしまった.本題は「けっこうできるようになったなって実感しました」ってことで,俺はこれだけ書きたかった.継続は力なりってゆうけど,これは本当だね.最近は1日に処理できる量もけっこう増えてきているから,このまま続けたらまだまだ伸びるんだろう.それはそれで楽しみだ.さて,大学戻ってももう英語で泣くことはないだろう.当時よりいろんな面で余裕も生まれたし,英語での意思疎通もある程度心理ブロックは外れてるだろうから,外人集団ともそこそこ話せると思うね.さっきも書いたけど,当時は本当に英語はつまらんかったしなくなれと思っていた.今はそうゆう負の感情がない.俺は自分が英語が好きなのかどうかはわからないと自認してるのだけど,これを扱う技能がいくぶんついたおかげで文字にあたる範囲が広がったのはよかったと思う.英語がどうとかはわからんけど,文字にあたることは昔から好きなのだ.

 

仕事もなくてやることないから,大学に戻ってみたいなとかそうゆうことをいつもより頻繁に思いつくのだろう.それにしてもなんか知らんけど昔よりもやりたいことが増えた.あんなに何もやりたくない無気力マンだったのに.今度,コマバの空気を吸いに行こうかな.コマバの裏門から歩いて渋谷まで行こう.年を重ねて視野がだいぶ広くなってるから,記憶にすっかり染み付いたいつかの景色も新鮮に映ったりするだろう.

 

今日は上記の教科書を読みながら世界史の教科書を開いて読んだ.従って,本日は受験勉強をした

英文解釈の「みんなちがって、みんないい」感 〜「英文解釈(演習室)」の魅力〜

タイトルは違うけど先日のエントリの後編と思ってください。あと,アスクの狼氏の以下のツイートに追随するエントリでもあると思ってください。

 

初めての勝負のときは,英文解釈は難解な暗号解読ゲームだと思っていた。コムズカシイ文法を指摘して茶色い本片手にウンウン講釈を垂れたり,チマチマと語を拾っては歴史的な語形成から意味するところを開陳していったり…そんなところがあると思っており,なんかこう特別に高級な営みみたいに感じていた。

 

ところがまあ回数を重ねて人の訳文みたり道場主の評価など見てたりすると,どうもそういう態度はそもそもおかしいんじゃないのと思うようになってくる。何かひとつの求められた答えに向かって日本語をあわせていくのではない,という見方が今の自分の中では強い。

 

翻訳であれば,たとえば「著者が日本語ネイティブだった場合はどういう表現をするか」というのがひとつの訳文作成基準になるんだと思う。ただ,「大人の英文解釈」の場合もそれで通用するのか(あるいはそれで良いのか)というと,なんだか違う気がしてくる。むしろ今の自分は,「著者が自分に宿ったらどんな書き口で表現するか」という視座に立ちたい。

 

解釈というのはもちろん原文があるわけだから,そこから著者のおもいを吸い出そうと努力するのは当たり前だ。この最初の奮闘の大きな土俵となる枠組みは,「英語力」で一括されるようなもので,それはたとえば文法的知識,語彙の知識,文脈をとる力などなど,こういうものだと思う。大体は学校で学ぶ体系でこと足りるのだから学校英語はすごい。武器として文法書や辞書をいくつか持っておけば,心強さが増す。ただ,与えられたテキストからこれらをすべて読み取ったとして,一字一句置き換えていったとしても,どうにも味も素っ気もない文章で終わってしまうことはよくある。これは真面目に訳を作ったことのある方なら経験済みと思う。

 

そこで一部の参戦者がやっている次の奮闘はというと,入念な下調べである。与えられたテキスト以外にも手がかりはごまんと転がっている。難しいことではない。インターネットはすごいもので,Googleでチョロっと検索すれば山ほど手がかりが見つかったりする。要は,そこにないヒントを自分で探しにいって,著者がそのことばを紡ぎ出したときの心象風景をできるだけ忠実に描ければ,というわけだ。こういうのは文芸翻訳なんかを生業とされている人は特にやるんじゃないかと推測する。生い立ちや時代背景を調べるだけで理解の助けになる。あるいはそういうのを調べなくても,ある作家さんを読み重ねていけば,自らのうちにその人の像が出来上がってきて「らしさ」も洗練されていくんじゃないか。そういうものだと思う。とにかく,探偵にでもなったつもりで,理解に根拠や一貫性を持たせていくためにあちこち出向いて調査する。これは存外楽しい。

 

さて,ではそこから読みやすさを意識して試訳の日本語を整えて終わり…としても良いわけだが,僕はそこから先に一歩踏み込みたい。「英文解釈」はやはり「解釈」であってほしいと思う。書き手の知的営為に時の縛りを超えて飛び込んで,読み手としてそこに積極的に参加したい。「僕はこう読んだよ」と胸張って言いたい。そしてそう自信持って言えるのは,どういう読み方をしたにせよ,自分の中にことばが腑に落ちたときであり,それが自分のことばになってこの世に生み出されたときだろう。そうでなければせっかく捻り出した訳も紙面に雑に散りばめられた記号にすぎず,ことばとして活力を失っている気がする。それはことばと言っちゃいけない気もする。だから,最後は「著者が自分に宿ったらどんな書き口で表現するか」というわけで,読んだ証を自分だけのことばとして真っさらな紙面に刻み付けたい。

 

僕は書いているときは文字を進めるごとにどんどん調子が乗ってくるタイプで,しまいにはピアノを弾くみたいに浮かれ心地でキーボードを叩いていたりする。最近の勝負では最後の訳文を仕上げるときは結構そんな感じで,とにかくリズミカルに日本語を組み立てては修正していくうちに,癖のある自分の色が全面に出てしまっている。ナルシストのようだが自分の文が嫌いではないので,これを読み返すのは恥ずかしいけれども安心する。読んだな!という感じがする。

 

人の訳文を拝見すると,やはり個性的だなと思う。同じマテリアルに当たっているのに,読み口が全く違って楽しい。たとえば,連戦連勝の狼氏のイメージは囲碁だ。盤上の最も的確な目に碁石をバシッ!バシッ!っと打つような感じ。最もシンプルなのに一番効く手でことばを「乗せて」くる。これは読んでいて音まで聞こえてくるからすごい。猫番長はかろやかな足どりでひゅんひゅんと塀を飛びうつっていって,ここぞというときにこちらを振り向いていたずらな顔で「ニャン」と鳴く。気づいたときには最後まで読んでしまっていて,また軒先に干してた魚をやられたなという感じ。我らがZは仏像彫り師の趣がある。その訳文は原木に刃を当てていって彫っていった感じがする。スタイルはかの有名な仏師円空上人を思わせるもので,一見荒削りかと思われたところが目を凝らしてみれば見事に完成していたりする。通しか出せない荒技は,それを見る目も通じゃないとわからない。(もちろん僕なんかは結構わからないときが多い。前回の「合目的性」とかもそう。)

 

筒井先生がそれぞれの訳文をどんな目で見ているのかはわからないが,やっぱり「ひと」を感じさせるものは目に留まるだろうし読み応えもあるんじゃないか。「ああ!このひとはこう読んだか!!」この感じが訳文からぶわっと滲み出てくるものは本当に心地よく,美しいと思う。それがそのひとが固有にもつ訳文の「味」になる。

 

英文解釈というとどうしても訓詁訳読のイメージがつきまとう。「正しい/正しくない」の議論が必然的に伴うから,ひとを遠ざけるところがある気がする。誰だって「正しい」側でありたいんだから。でも極論してしまえば,「解釈」なんだから大雑把なルールだけ守って,そこで好き勝手にやればいい。そして「私はこう読みましたよ」と胸張って言えばいい。英文解釈は学習者に与えられた自由だと思う。手元にある道具だけをもって,いまある力だけをもって,自分が決めた方角目指して翼をひろげて羽ばたけばいい。能動的な読み手になってテキストに新しい命を与えてやれる素晴らしい営みだ。「良い訳文」はオリジナルから離れたところでひとつの作品になる。こうなると「正しさ」の基準なんてものは霧のごとく消え去って,それ単体で教訓を持つ作品はオリジナルからひとり立ちして新たに人の心に訴えかける。素敵だなあと思う。そう思いませんか?

研の復(1)

「模試は成績見て一喜一憂するためのものじゃありません」をゆう資格があるオトナになるために研はあますところなく復讐しなければならない(義務感)

 

毎日ちまちまやります.こゆのを一気にやれないタイプなのでちょとずつやります.やりますって.やりますから…ちゃんと…

 

musty(大問1(1)誤りの選択肢)

  • a musty room, house, or object has an unpleasant smell, because it is old and has not had any fresh air for a long time [LDOCE]
  • Something that is musty smells old and damp. [Collins]
  • impaired by damp or mildew : MOLDY [MW]
  • smelling unpleasantly old and slightly wet [CD]
  • Having a stale, mouldy, or damp smell. [LEXICO]

目がチカチカするがを見たら臭いに関する語なのがわかる.を見ると「何年も人の出入りなしに放置されつづけた部屋の湿っぽい黴臭さ」みたいなのがイメージされるな.ググ検したらよくわかる.

musty room - Google 検索

うーんなんだかジメジメとしていますね.moistと関連がある語だそうで,なんかやっぱ湿気を連想させるのだろうな.basementのイメージが多いが,例えば日当たりが悪くて湿っぽい部屋にも使う感じがあるな.

 

幼い頃の記憶だが,昔じいちゃんがやってた畑に倉庫があって,おそらく自分が生まれる前とかに家族に使われていただろうなんやかやが大切にしまい込んであった.めちゃくちゃ大きかったイメージがあるが,まだ小学に上がったばかりに見た記憶だからおそらくそう感じただけのことだろう.6畳なかったんかもしれん.あのときはなんでも大きく見えた.シャッターを開けると太陽の光が差し込んで,埃がカーテンみたいに舞うのが見えた.あのときの塵っぽい匂いはむしろ乾いていて,幼い嗅覚には新鮮で爽やかな感じがした.中にあったものは相当古いものだったに違いないが.

ジメジメと不快な感じがmustyならばそう形容するべきものではないかもしれないが,そういう記憶がふと蘇った.以下はMWのSynonym Discussionをそのまま貼っつけたもの.

 

MALODOROUS, STINKING, FETID, NOISOME, PUTRID, RANK, FUSTY, MUSTY mean bad-smelling.

  • MALODOROUS may range from the unpleasant to the strongly offensive.
    malodorous fertilizers
  • STINKING and FETID suggest the foul or disgusting.
    prisoners were held in stinking cells
    the fetid odor of skunk cabbage
  • NOISOME adds a suggestion of being harmful or unwholesome as well as offensive.
    a stagnant, noisome sewer
  • PUTRID implies particularly the sickening odor of decaying organic matter.
    the putrid smell of rotting fish
  • RANK suggests a strong unpleasant smell.
    rank cigar smoke
  • FUSTY and MUSTY suggest lack of fresh air and sunlight, FUSTY also implying prolonged uncleanliness, MUSTY stressing the effects of dampness, mildew, or age.
    a fusty attic
    the musty odor of a damp cellar

最後に下線引いたとこからも日当たりの悪さとかも連想させそうだな.匂いがよろしくない系はどの語もあまり馴染みがないです.それにしてもカラッとした埃っぽさはなんとゆうのだろうな.時の流れを感じさせるあの匂いは意外に好きかもしれない.

今日は研があった.

今日は研があった.二度目の研だった.

 

単語は勉強してない割にはまあ取れたんじゃないか.lesionとゆう単語を知った.熟語はダメだった.ここでたくさん落とした.今年の目標は語彙増強だな,と思った.

 

リーはベティ・フリーダンが出た.大学のとき受けたジェンダー論の授業を思い出した.フェミニン・ミスティークは大学の頃から興味があったので楽しく読めた.試験勉強的な読みは本当に嫌だったのだが,研のリーは好きになった.題材が面白いので.

 

ライはまああれからずっと書いてないにしては上出来だろう.前回と同じく270ワーズくらい書いた.技術革新がトリガーになって人間は新しい思想的枠組みを持つことができる,みたいな論点を入れた.この論点は我ながら良かったと思う.

 

リスはあまり集中ができず良くなかった.直前の過去問はとてもよく取れていただけに,自信が持てない問題が続いたのが尾を引いた.リスとスピは苦手だ.ここが克服されないと本当のプロにはなれないなと思う.

 

今回の一次は受かっていてもぎりぎりボーダーくらいか.今年は受かりたい.

 

今日は受験勉強はしなかった.

2018年の訳文を発見して思うところをつらつら書いた【前半】

『英語教育』誌の「英文解釈演習室」に訳文投稿しはじめたのは確か昨年の4月号のときからだから,もうそろそろでこの新しい遊びを始めてから1年が経つ。Zの呼びかけから「勝負」として始まったこの遊びはどんどんTLの方々に染まっていって,直近の回では20名以上がTwitter出身だったようだ。

自分の出場経緯はというと,その当時(たった1年前だが)英語にそれなりに自信がついてきたということと,もともと負けず嫌いなので勝負と聞いて意気込んだ程度のことと思う。真面目に続けてきたのを振り返ってみると,電脳世界で友情が深まったり,自分に余裕が出てきたり,なにより読むことの意義についてなんとなく掴むところがあったりして,英語力が云々とか以上に有意義だった。解釈を通して見えてきたことを忘れないうちに言語化しておく。

(このエントリは「お前2022のはじめにこんなこと書いとるぞ」といつかの自分に読ませて恥ずかしさに身悶えさせる以上の効果を期待していない)

 

幸福な者というのは,あるがままの世界を生きる者のことだ。分け隔てなく慈しみ,博くものごとに惹きつけられる者だ。そうした者は,自らを幸福に保つのにこの好奇や慈愛を経るものだ。そして更に辿っている点といえば,この好奇や愛があればこそ,結局は自らも,他の多くの者を惹きつけるし,彼らに慈しまれたりもするということだ。愛の享け手たることが,まさしく幸福を呼び起こす。ところが,こちらが愛を無心してしまうと,愛の恩寵にはあずかれない。愛を享ける者とはむしろ,手荒に言ってしまえば,愛を差しのべる者のことである。

 

TLの方なら「あれじゃん!!!」と思うやつだ。ご存知,バートランド・ラッセルのThe Conquest of Happinessの有名な一節だ。この訳文は2018年6月の末に僕がこしらえた。予備校講師の土岐田先生主催社会人向けセミナーで課された英文だった。いま眺め返してみると,なにを思ってobjectivelyをこう訳したんだ?とか,potentの訳出絶対間違えただろ,とか,当時はウンウン唸っていたところについて,ある種の余裕をもって評価を下すことができる(気がする)。たった3年半前だが,ずいぶん成長したものだなと思う。この時は「解釈」という言葉を知らなかった。

 

「解釈」という言葉は,おそらく先の訳文を作ってから一年と少ししてちょうど北村先生の『英文解体新書』が世に出たくらいに——自分のボキャブラリの中で重要な位置を占め始めたと思う。それまでは見たことや使ったことがあったとしても,それほど身体に馴染んでいる言葉ではなかった。正直に告白すると,自分は大学受験時代にいわゆる解釈系教材(『英文解釈教室』やら『ポレポレ』やらその他有名な解釈教材)を一切通っていないし,講師を始めてからもわりと最近まではそういった参考書に手をつけていない。自分にとっての解釈参考書は先の『解体新書』,それから久保田先生の『英文解釈クラシック』が実質はじめてで,これにだいたい同時期に取り組んでいる最中に「解釈」という言葉をはじめて意識した。以降,Zが登場し,勝負に飛び込んで…という感じでこの言葉が表すものを自分の中に徐々に内面化していった。

 

自分の場合,学校教育時代に曲がりなりにも品詞とかSVOCとか5文型とか句と節とか,いわゆる学校文法をひととおりは真面目にやっており,文法にしたがって正しく読むための基本的な手法をもってはいた。いま解釈としてやっている取り組みの原点は中坊時代,教科書の『ニュー・トレジャー』本文全訳だろうと思う。高2の頭までだったかずっと宿題として課されていた。なにしろやっていないと怖い体罰(平手打ちと正座)が待っていたから一生懸命やった。「習った文法を当てはめて順番を正しく組み替えながら日本語に直すものだ」ほどの態度はこの宿題で十分に養われたと思う。

 

高校にあがって受験期に差しかかる頃には,この作業には「英文和訳」の名前がつけられていた。学校で与えられたプリントをこなしただけだが,結構好きだった。高2〜高3の頃は「ベシン」という渾名の担任から「お前は日本語がうまい」と褒められたこともあり,嬉しくていろいろ訳を作った。多少よく分からない単語が出てきても,ベシンが熱意をもって教えてくれた「ディスコースマーカー」の魔法を使えばなんとかなった。こういう意味じゃないとおかしくなるな,というのを未熟な嗅覚で感じ取ってこれまた知的未熟さ漂うガキンチョの日本語を並べ,ベシンが来る前に黒板に書き散らかしておく。授業が始まると「お〜〜ん誰やこれ書いたんはぁ〜?うまく訳せとるやないか〜↑↑」と独特の調子で褒めてくれるから,調子に乗っていろいろ日本語をこねくり回して,なんかかっこいい感じの日本語に仕上げていく。クラスメイトが「馬は…」と書き出すところを「馬なる動物は…」と書いたりして,たったこれだけで「高級な知的営為を成したゼ」とか思ってたんじゃないか。恥ずかしいくらいに青いなあと思う。とまれ,この時期までには「構造把握の通りに日本語にしよう」「単語の意味は文脈を使えば汲み取れるときがある」「なんかかっこいい日本語にしたほうがウケがいい」というのが経験則としてマイルールになっていたと思う。振り返るとベシンは素晴らしい先生で,「関係詞の制限とか非制限は実は関係ないから訳に困ったら前からでも後ろからでも好きに訳せ」とか「カンマ接続詞ときたら一回訳を切ってまた文をはじめたほうがきれいに行く」とか「anyには『どんな〜ても』がお似合いなときがあるから訳しにくいときは一個譲歩の節を付け足してしまえ」とか訳出の技術を教えてくれていた。訳出の技術というとコワザ感があるが,実際のところこういうのはより深い理解に向かうための大胆な離れ技と言って全然良い。「訳出はわかれば柔軟でもええんやな」というくらいの気持ちで,このときは心にしまっていたような気がする。

 

浪人のときはあんまり英語が伸びた実感がしない。むしろ模試での得点力が伸びた。一回落ちて辛酸なめた大学入試に多少はリアルに向き合ったからだと思う。「和文英訳の答案でポエム書いちゃダメだ,求められてるコタエを書くんだ」という気持ちがあった。ベシンだから褒めてくれていた青臭い日本語訳は,東進の採点バイト大学生軍団はどうも分かってくれない。連中は頭が悪いんじゃあないかと思っていた。自分の訳が未熟だからだと反省し,かなり構造に忠実な訳を心がけるようにしたら得点をいただけるようになった。

 

運よく大学に滑り込んでからは暗黒時代を迎える。暗黒なので書くことが何もない。すべてがマックラ。記憶を消去してしまったのか覚えていることが一つもない。なんでだ? 不思議だなあ。(これは何かの拍子に思い出しでもしたら「くそったれ!大学時代」と題して別にエントリを立てる)

 

気付いたら英語教育業界に飛び込んでいて,英語の読み方・理解の仕方を教える立場にいた。自分の英語への向き合い方は上記の通り「構造把握した英語をいかに日本語に落とし込むか」的なところが大きかったものだから,しぜん指導もそういった方向性のものになる。ただ,冒頭で言った通り「解釈」という言葉には比較的最近まで馴染みがなかった。この言葉との正式な出会いはやっぱり2019年夏の『解体新書』,それからTLでの言及は少ないが2020年の『クラシック』かなと思う.ああ自分がやっているのは「解釈」って言うのか〜と「英文和訳」からの屋号変更が行われた。

 

ただ,その行為の本質の理解はおおむねのところ変わっていない。経験則に基づいたゆるいルールが相当程度改善され,一種の方法論が組み上がってきたと思う。とにかくまずは厳密に文法を当てはめていって統語構造(この時期に知ったかっこいい言葉)を掴む。そのなかで,例えばある特定の語が含む語感からだとか,あるいは前後にある文との繋がりだとか,そういう目に見えるヒントをもっともっと意図的に使っていくことができる。こういうことを学んだと思う。その前までの態度は,冒頭の2018年の訳文を見てもらえればわかりやすいんじゃないか。例えばlives objectivelyなんかは苦し紛れに「あるがままの世界を生きる」とか訳している。これなんかはもうこの単語しか見えていない。objective =「客観」という語と語の変換から捻り出した苦肉の策なんじゃないか。余裕が一切ない感じがする。subjectivelyではないと考えたり,後続する敷衍を的確に拾えたりすれば,「思いやりをもって」とか「周りを気遣って」とか「人のために」とか「自分を殺して」とか,もっともっと適切な訳語を選べた気がする。とにかく2019年夏以降の時期は,「文脈を考えよう」とか子供ダマシな言葉遣いとは違う形で,読み方の技術をより一層洗練させることができたと思う。

 

一昨年の6月くらいにZとcome談義で盛り上がり相互フォローになった。しばらくして北村先生のツイートに引用RTで訳文晒したら,幸いなことにZが一目おいてくれるようになった。このあたりに英中さんや見習いと深夜のコロケ三番勝負で遊んだりした(ムキになった時もあった笑)。神童かばん屋の伝説の辻斬りがあったのもこの辺りと思う。とにかくフォロワーと敗北しまくって遊んだものだから,無茶苦茶英語力が上がった。嘘つき那杜が断罪されたり,寡黙なポストTOEIC主義者裏三郎が現れたりと,いろいろ面白いこともあった。そんな中で『英語教育』英文解釈演習室の「勝負」が静かに幕を開けた。

 

え,やばい。いろいろ思い出して整理して書いてたらこんな時間。続きは明日にしちゃお。バイバーイ。