ゆるふわふぢげたんカフェブログ

森の小さなカフェの常連の英語講師(藤本亮太郎)によるブログです。お店の日常をあげているインスタもよろしくおねがいします。@koshinkokunihon

講師オーディションの結果について思うところ.

先に断っておくけど,これは僕の思考整理を試みたものであって,同意を求めるものとかではありません.英語教育界隈向けのエントリです.講師オーディションの決勝動画(岡崎先生Junko先生パト先生、50音順)とその結果を見てから読んだ方がいいと思います.

 

講師オーディション決勝の結果が出た.あんまり多くをツイートしていなかったけど,自分も英語教育に携わる身とゆうのもあってしっかりと全ての動画をチェックしていた.普段は見られないひとの授業が見れたり,教育の新しい可能性を見せてくたりする大変刺激的なコンテストだ.教育人としても学ぶところは多いし,学習者としても有意義なところばかり.今回もそれぞれの先生がそれぞれに素敵な授業をされていて,学習面・指導面ともに学ぶところが多くあった.

 

予選から大変に素晴らしい授業ばかりだったから,ファイナルの3人を選んだ先生方の思い悩みも大きかったことと思う.岡崎先生は,映画の実例を効果的に用い,if notとゆう盲点中の盲点をテンポよく見事に解説された.Junko先生は,クリアで美しい発音とともに,生徒あるいは指導者も見落としがちな音声面での穴を指摘し,誤りの原因も交えて丁寧に説明された.パト先生はその突出した独創をたのしいイラストでストーリーに織りなして,英文を読む際に必須の視点をあざやかに捌いて見せた.どれもが唯一無二で,他の誰にもできない魂のこもった作品に見える.だからこそ,見ているこちらも力が入るし,何度も視聴して全てを吸い取ろうとさえ思える.もちろんこれはファイナルに進まれた方だけの話ではない.予選,あるいはきっと予選に進まなくとも,全ての提出された動画がそうであるに違いない.それぞれの現場で戦われているそれぞれの先生方のそれぞれの思いが詰まっている.

 

思いの丈を乗せたこうした作品は指導の良し悪し以上に,これからの教育のあたらしい可能性を秘めている.時代は着実に変わっており,新しいデバイスの出現とともに新しい教育形態も試みられ,時代の要請とともにそれも徐々に根付いてきた.この1年でオンラインとゆう形態はすっかりお馴染みだし,映像や音響やアニメーションを効果的に取り入れたり,スマホのアプリケーションで学習を記録管理したり等々,つい10年,20年前には思いもつかなかったほど教育法はバリエーションを増した.喜ばしいことに,ますます広がる選択肢のおかげで,教育は以前よりも確実に手に届きやすいものになった.

 

こうゆう態度で講師オーディションを見ていたから,今回の「優勝者なし」とゆう結果には違和感があった.関先生は「優勝に値する授業がない」とゆう評価と思われるが,成川先生と福崎先生はそれと同様なのか,あるいは「全員優勝に値する」とゆう評価なのかも分からない.そもそも,審査員の仕事は3つの挑戦からひとつを選ぶことではないのか,とゆう思いも強い.どれも方向性が違うから甲乙付け難いとゆうのは分かる.それでも,そこから「自分はこれが良い」と判断するのが役割ではないのか.その役割に了解があったから審査員を引き受けたはずだと思うのだが,その責任を果たされたのは安河内先生ひとりだけだった.「該当者なし」と評された先生はなぜその結論に行き着いたのかも明確にされなかったから,ただただモヤモヤしただけで終わった.後述するけれども,関先生に至ってはTwitter上で「下手」のひとことでばっさりと斬り捨てられたが,これにも思うところがある.

 

成川先生は「異種競技の審査」とゆう言葉づかいをされていた.おそらく最後にコメントされた福崎先生も(なんと2日間悩まれたそうだが)同様のお悩みがあって「該当者なし」とされたのではないかと推察する.ところが,僕はこの「異種競技」感が判断不能の根拠になりうるかとゆう点に大きな違和感がある.リンゴと大根と鶏肉どれが好きか,と問われて,「う〜ん果物と野菜と肉は比べられんなあ」と答えるかどうかとゆう話に似ている.これは実感しか伝えない極端で下手な喩えだけど,プロであれば,各人の好みは認めた上で,様々な尺度をもって判断できて欲しい.長年教育に携わってきたプロだからこそ,高みから俯瞰して欲しい.別に「トミカとリップクリームと土どれが好き?」みたいな究極の極端を問われているわけじゃないのだ.「英語の授業としてどれが最も魅力があると思いますか?」とゆうシンプルな問いに,プロとして俯瞰して見て答えを出せないのであれば,審査員が審査員として力量不足だったとゆうことだろう.「該当者なし」とゆうならば「全員に一票を与えます」の方が責任を果たしていると思ったが,そうゆう先生もいらっしゃらなかった.

 

関先生はご自身の基準に従って,4人の審査員の中でもっとも分かりやすく,かつ丁寧に評価をされた.ところが,動画の後に出されたTwitter上でのコメントは不快を催すものだった.「下手」とゆうのがどのような意味を込めているのか不明だが,「この先生に習いたいなと思わせる(*ご自身が評価で使用されていた表現)」方の発言では到底ない.審査員の役割として,授業の評価はしてもいいと思うのだが,その評価の中でひとつを推挙するとゆうもっとも求められている役割を「下手」の一言で誤魔化してはならない.前述したとおり,それは審査員としての明らかな力量の不足である.
*重々強調しておきたいのだが,このエントリは関先生を批判するために書いたものではないので,読み手となる方も十分に気をつけていただきたい.

 

さて,このような中途半端な結果で参加者・視聴者をモヤモヤさせてしまった原因のひとつには,やはり審査員が「同一種目競技」,たとえば「ザ・予備校講師」的な同一範疇での試合を期待していたから,とゆうのがあるのだろうと思う.もしかすると審査員は「黒板をバックにあざやかな話術とかろやかなチョークさばきでオーディエンスをあっとゆわせる神授業」を期待していたのかもしれない.「動画で3分」とゆう条件からこれほどまでに様々な可能性が生じうるとゆう点を想像されていなかったとゆう点はあると思う.今回の結果を「該当者なし」と宣言してしまったことで,審査員の視野の狭さを露呈した風に映る.せっかく注目が集まっていた企画なだけに,今回の結果が今後の審査基準の方向性を決定づけ,従来的・固定的な講師像を求める態度を明らかにした点は残念だ.

 

この仕事をしていると,「予備校全盛期」とゆう言葉を聞くことがある.職場の大先輩が若造に聞かせるように教えてくれることもあれば,酒の場でたまたま隣りあったオジサンが,僕が教育人と知って懐かしげに語ってくれることもある.予備校が用意した大教室の何百とゆう席,それでも限られた席を,我先と陣取ってレコーダー片手に超有名講師の講義を聞く.講師にしても客たる生徒にしても,これが教育だ,これが講師像だ,そんなスタンダードが通用する時代がたぶんあったのだ.ところが,僕がこの言葉を聞くときはいつも懐古のトーンを帯びているように感じる.自分の職場の現場感覚とも著しくズレを感じる.「ザ・予備校講師」が教え手のスタンダードであった時代はとうに終わった.手元にあるあらゆるデバイス,あらゆるアプリケーションを使って,教育のやり方をどんどん拡張していく時代だ.「編集に頼りすぎちゃって講師の生のものがない」とゆうのはモリテツ先生の最後のコメントだが,編集技術やパト先生みたいなイラストだって,黒板とチョークと同等あるいはそれ以上の力を持つ強力な武器だと思うし,僕はそれをもっと許容する風潮が欲しい.

 

講師オーディションという場は,動画というミディアムを通して,この時代だからこそできる全くめあたらしい教育を見せてくれる.そうしたあらたな可能性にワクワクドキドキしている人間がここにいる.どうか参加された先生方の挑戦を無下にはせずに,柔軟で自由な企画となって,教育にあたらしい風を巻き起こして欲しい.サービスの価値はサービスの受け手が決めるとゆう点も踏まえ,審査の軸を再考察してはどうだろうか.オーディションとゆう企画が英語教育業界全体の共有財産となり,業界をより流動的に変えていく場になれば,見ていて心地も良いし,今は単に傍観しているだけのこの身も参加したいと思う.