ゆるふわふぢげたんカフェブログ

森の小さなカフェの常連の英語講師(藤本亮太郎)によるブログです。お店の日常をあげているインスタもよろしくおねがいします。@koshinkokunihon

英文解釈の「みんなちがって、みんないい」感 〜「英文解釈(演習室)」の魅力〜

タイトルは違うけど先日のエントリの後編と思ってください。あと,アスクの狼氏の以下のツイートに追随するエントリでもあると思ってください。

 

初めての勝負のときは,英文解釈は難解な暗号解読ゲームだと思っていた。コムズカシイ文法を指摘して茶色い本片手にウンウン講釈を垂れたり,チマチマと語を拾っては歴史的な語形成から意味するところを開陳していったり…そんなところがあると思っており,なんかこう特別に高級な営みみたいに感じていた。

 

ところがまあ回数を重ねて人の訳文みたり道場主の評価など見てたりすると,どうもそういう態度はそもそもおかしいんじゃないのと思うようになってくる。何かひとつの求められた答えに向かって日本語をあわせていくのではない,という見方が今の自分の中では強い。

 

翻訳であれば,たとえば「著者が日本語ネイティブだった場合はどういう表現をするか」というのがひとつの訳文作成基準になるんだと思う。ただ,「大人の英文解釈」の場合もそれで通用するのか(あるいはそれで良いのか)というと,なんだか違う気がしてくる。むしろ今の自分は,「著者が自分に宿ったらどんな書き口で表現するか」という視座に立ちたい。

 

解釈というのはもちろん原文があるわけだから,そこから著者のおもいを吸い出そうと努力するのは当たり前だ。この最初の奮闘の大きな土俵となる枠組みは,「英語力」で一括されるようなもので,それはたとえば文法的知識,語彙の知識,文脈をとる力などなど,こういうものだと思う。大体は学校で学ぶ体系でこと足りるのだから学校英語はすごい。武器として文法書や辞書をいくつか持っておけば,心強さが増す。ただ,与えられたテキストからこれらをすべて読み取ったとして,一字一句置き換えていったとしても,どうにも味も素っ気もない文章で終わってしまうことはよくある。これは真面目に訳を作ったことのある方なら経験済みと思う。

 

そこで一部の参戦者がやっている次の奮闘はというと,入念な下調べである。与えられたテキスト以外にも手がかりはごまんと転がっている。難しいことではない。インターネットはすごいもので,Googleでチョロっと検索すれば山ほど手がかりが見つかったりする。要は,そこにないヒントを自分で探しにいって,著者がそのことばを紡ぎ出したときの心象風景をできるだけ忠実に描ければ,というわけだ。こういうのは文芸翻訳なんかを生業とされている人は特にやるんじゃないかと推測する。生い立ちや時代背景を調べるだけで理解の助けになる。あるいはそういうのを調べなくても,ある作家さんを読み重ねていけば,自らのうちにその人の像が出来上がってきて「らしさ」も洗練されていくんじゃないか。そういうものだと思う。とにかく,探偵にでもなったつもりで,理解に根拠や一貫性を持たせていくためにあちこち出向いて調査する。これは存外楽しい。

 

さて,ではそこから読みやすさを意識して試訳の日本語を整えて終わり…としても良いわけだが,僕はそこから先に一歩踏み込みたい。「英文解釈」はやはり「解釈」であってほしいと思う。書き手の知的営為に時の縛りを超えて飛び込んで,読み手としてそこに積極的に参加したい。「僕はこう読んだよ」と胸張って言いたい。そしてそう自信持って言えるのは,どういう読み方をしたにせよ,自分の中にことばが腑に落ちたときであり,それが自分のことばになってこの世に生み出されたときだろう。そうでなければせっかく捻り出した訳も紙面に雑に散りばめられた記号にすぎず,ことばとして活力を失っている気がする。それはことばと言っちゃいけない気もする。だから,最後は「著者が自分に宿ったらどんな書き口で表現するか」というわけで,読んだ証を自分だけのことばとして真っさらな紙面に刻み付けたい。

 

僕は書いているときは文字を進めるごとにどんどん調子が乗ってくるタイプで,しまいにはピアノを弾くみたいに浮かれ心地でキーボードを叩いていたりする。最近の勝負では最後の訳文を仕上げるときは結構そんな感じで,とにかくリズミカルに日本語を組み立てては修正していくうちに,癖のある自分の色が全面に出てしまっている。ナルシストのようだが自分の文が嫌いではないので,これを読み返すのは恥ずかしいけれども安心する。読んだな!という感じがする。

 

人の訳文を拝見すると,やはり個性的だなと思う。同じマテリアルに当たっているのに,読み口が全く違って楽しい。たとえば,連戦連勝の狼氏のイメージは囲碁だ。盤上の最も的確な目に碁石をバシッ!バシッ!っと打つような感じ。最もシンプルなのに一番効く手でことばを「乗せて」くる。これは読んでいて音まで聞こえてくるからすごい。猫番長はかろやかな足どりでひゅんひゅんと塀を飛びうつっていって,ここぞというときにこちらを振り向いていたずらな顔で「ニャン」と鳴く。気づいたときには最後まで読んでしまっていて,また軒先に干してた魚をやられたなという感じ。我らがZは仏像彫り師の趣がある。その訳文は原木に刃を当てていって彫っていった感じがする。スタイルはかの有名な仏師円空上人を思わせるもので,一見荒削りかと思われたところが目を凝らしてみれば見事に完成していたりする。通しか出せない荒技は,それを見る目も通じゃないとわからない。(もちろん僕なんかは結構わからないときが多い。前回の「合目的性」とかもそう。)

 

筒井先生がそれぞれの訳文をどんな目で見ているのかはわからないが,やっぱり「ひと」を感じさせるものは目に留まるだろうし読み応えもあるんじゃないか。「ああ!このひとはこう読んだか!!」この感じが訳文からぶわっと滲み出てくるものは本当に心地よく,美しいと思う。それがそのひとが固有にもつ訳文の「味」になる。

 

英文解釈というとどうしても訓詁訳読のイメージがつきまとう。「正しい/正しくない」の議論が必然的に伴うから,ひとを遠ざけるところがある気がする。誰だって「正しい」側でありたいんだから。でも極論してしまえば,「解釈」なんだから大雑把なルールだけ守って,そこで好き勝手にやればいい。そして「私はこう読みましたよ」と胸張って言えばいい。英文解釈は学習者に与えられた自由だと思う。手元にある道具だけをもって,いまある力だけをもって,自分が決めた方角目指して翼をひろげて羽ばたけばいい。能動的な読み手になってテキストに新しい命を与えてやれる素晴らしい営みだ。「良い訳文」はオリジナルから離れたところでひとつの作品になる。こうなると「正しさ」の基準なんてものは霧のごとく消え去って,それ単体で教訓を持つ作品はオリジナルからひとり立ちして新たに人の心に訴えかける。素敵だなあと思う。そう思いませんか?